「徴兵令」の版間の差分

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== 前史 ==
[[戊辰戦争]]における[[官軍]]、すなわち[[明治新政府]]の軍は、[[長州藩|長州]]・[[薩摩藩|薩摩]]・[[土佐藩|土佐]]など諸[[藩]]の軍の集合で、[[大村益次郎]]、[[西郷隆盛]]、[[板垣退助]]らがそれぞれ指揮しており、政府が独自に徴兵して組織した軍はなかった。明治政府直属の[[御親兵]]も、長州藩の一部部隊を元に諸藩の在京の[[浪人]]を集めて組織されたものだった。
 
大村や[[西郷従道]]、[[山縣有朋]](論主一賦兵<ref>[http://www.e-obs.com/heo/heodata/n480.htm 徴兵令 - 国民皆兵と壮丁教育]</ref>)らは、早くから「'''[[国民皆兵]]'''」の必要性を唱えていた。これは、[[近世]]的な個人的武技に頼る戦闘では、[[近代]]戦において勝利を得るのが困難であることを理解していたからである<ref name=TF>[http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/54_hohei9/1_1.html 『新修 大津市史』5 近代 第1章 近代大津の出発 「歩兵第九連隊」]([[京都大学人文科学研究所]]元教授 [[古屋哲夫]]著)</ref>。しかし、これには[[身分]]・[[家格]]を廃して[[四民平等]]を導入せねばならず、すなわち[[江戸時代]]の[[特権階級]]のうち最大の人口を占める[[武士]]の解体を意味する。そのため、政府内にも[[島津久光]]を筆頭に[[前原一誠]]・[[桐野利秋]]ら保守的な反対論者を多数抱えており、また西郷隆盛も「[[壮兵]]」といって、中下層士族の立場を考慮した'''[[志願兵]]'''制度を構想していて徴兵制には消極的であった。そのうち、大村が暗殺された事もあって構想は一旦は挫折する事となった。
 
[[明治3年]][[11月13日_(旧暦)|11月13日]](新暦:[[1871年]]1月3日)に山縣有朋の構想のもと、'''徴兵規則'''(ちょうへいきそく)が制定され、各[[府藩県]]より[[士族]][[族]]・庶人にかかわらず1万石につき5人を徴兵することを定めた。続いて翌[[明治4年]][[2月13日_(旧暦)|2月13日]](新暦:1871年4月2日)には、西郷の構想の一部をも取り込む形で三藩(薩摩・長州・土佐)の軍が[[親兵]]として編成され、この兵力を背景に同年7月[[廃藩置県]]が断行された。
 
続いて、中央集権体制の近代国家にとって国民軍の創出が必要と認識され、西郷隆盛も最終的には山縣の考え方を支持して、[[山城屋事件]]で山縣が辞職に追い込まれた後も、西郷は桐野利秋らの反対論を退けた。[[明治5年]][[11月28日_(旧暦)|11月28日]](新暦:[[1872年]]12月28日)に[[徴兵告諭]]が出され、翌明治6年([[1873年]])[[1月10日]](新暦)に徴兵令が施行。以後、毎年徴兵による新兵の入営日となった。
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== 関連項目 ==
* [[徴兵制度]]
* [[徴兵検査]]
* [[兵 (日本軍)]]