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| birth_place = {{GBR}} [[イングランド]]・[[アニック]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1801|7|27|1892|1|2}}
| death_place = {{GBR}} [[イングランド]]・[[グリニッジ]]
| residence =
| nationality = {{GBR}}
| field = [[位置天文学]]<br/>[[光学]]
| work_institution = [[グリニッジ天文台]]
| alma_mater = [[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]
| doctoral_advisor =
| doctoral_students =
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}}
 
サー・'''ジョージ・ビドル・エアリー'''(Sir ''George Biddell Airy''、[[1801年]][[7月27日]] – [[1892年]][[1月2日]])は、[[イギリス]]の[[天文学者]]。[[グリニッジ天文台]]台長([[王室観測係天文官]]、在任:[[1835年]] - [[1881年]])、[[王立協会]]会長(在任:[[1871年]] - [[1873年]])を務めた。
 
彼が決めたグリニッジの子午線が[[1884年]]に世界の[[本初子午線]]としてワシントンDCの本初子午線会議で25カ国に同意され、現在の経度0度となっている。
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== 人物・生涯 ==
[[イングランド]]の[[アニック]]で生まれる。1819年に[[ケンブリッジ大学]]の[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に入学<ref>{{Venn | id = ARY819GB | name = Airy, George Biddell }}</ref>。1836年に王立協会のフェローに選出された<ref>{{FRS |code = NA8035 |title = Airy; Sir; George Biddell (1801 - 1892) |accessdate = 2011-12-11 }}</ref>。グリニッジ天文台長時代に同天文台の設備・機構を大幅に整備し<ref name="カラー天文百科">{{仮リンク|ヨアヒム・ヘルマン|de|Joachim_Herrmann_(Astronom)}} 著、[[小平桂一]] 監修 『カラー天文百科』 [[平凡社]]、[[1976年]][[3月25日]]初版第1刷発行、288頁。</ref>、エアリー自身も観測機械を発明・改良した<ref name="カラー天文百科"/>。[[位置天文学]]に貢献する一方<ref name="カラー天文百科"/>、光の回折・干渉等[[光学]]の研究にも従事し<ref name="カラー天文百科"/>、円形開口を通過した光の回折によって生じる光学現象[[エアリーディスク]]にその名を残している。[[アイソスタシー]]説の提唱者でもある<ref name="カラー天文百科"/>。
1872年71歳のときにナイトの称号を受けている<ref>{{cite book
|editor = Wilfred Airy
|title = Autobiography of Sir George Biddel Airy,K.C.B.
|url = http://archive.org/details/autobiographyofs00airyrich
|year = 1896
|publisher = Cambridge University Press
|pages = 296
|accessdate = 2012/8/14
}}
</ref>。
 
==業績==
===グリニッジ子午線とグリニッジ時間===
海上での経度の測定にグリニッジ時間に合わされた[[クロノメータ]]が世界中で使わるようになっている時代に
<ref name= "経度への挑戦">{{Cite book|和書
|author=デーヴァ・ソベル
|translator = 藤井留美
|title = 経度への挑戦
|edition = 初版
|year = 1997
|publisher = [[翔泳社]]
|isbn = 4-88135-505-8
|pages = 178-185
}}</ref>
グリニッジ天文台長を勤めたエアリーは、経度そしてグリニッジ時間に関して二つの重要な功績を残している。
 
[[ファイル:prime-meridian.jpg|thumb|エアリーの子午環が置かれた建物。本初子午線を示すラインが引かれている。]]
ひとつめは、新たに[[天文台#子午儀・子午環|子午環]]
<ref>{{cite web
|auther = Graham Dolan
|url = http://www.thegreenwichmeridian.org/tgm/articles.php?article=6
|title = The Greenwich Meridian
|accessdate = 2012/8/14
}}
</ref>
を設置したことである
<ref name="グリニッジタイム">{{Cite book|和書
|author=デレク・ハウス
|translator = 橋爪若子
|title = グリニッジ・タイム
|edition = 初版
|year = 2007
|publisher = [[東洋書林]]
|isbn = 978-4-88721-730-0
|pages = 128-271
}}</ref>
これは1851年から1927年まで使われ、その間の1884年に開かれた世界子午線会議の結果、世界の本初子午線はグリニッジ子午線となった
<ref name="グリニッジタイム"/>
ために、
エアリーの子午環の上を通る子午線が本初子午線となった。
 
ふたつめは、電信を使ったグリニッジ時間の提供である。1851年、エアリーは、鉄道会社、電信公社、資金提供を期待する海軍省と計画の交渉を開始している
<ref name="グリニッジタイム"/>
。この計画は実行に移され、グリニッジ天文台からの信号は、イギリス国中の鉄道駅や郵便局、そしてクロノメータ製造業者に届けられるようになった
<ref name="グリニッジタイム"/>
 
===エアリー・ディスク===
1835年、"円形開口の対物レンズの回折について"を著し、波動光学的な解析から、理想的な望遠鏡であってもその星像は一定の大きさを持った円盤状となることを示した
<ref>Airy, G. B.,
"On the Diffraction of an Object-glass with Circular Aperture,"
[http://www.archive.org/details/transactionsofca05camb ''Transactions of the Cambridge Philosophical Society'', Vol. 5]
, 1835
, p. 283-291.</ref>
この円盤は[[エアリーディスク]]と呼ばれ、[[回折]]像を議論する際の指標となっている
<ref>{{cite book|和書
|author = 久保田広
|title = 応用光学
|edition = 第19刷
|year = 1980
|isbn = 4-00-029010-X
|pages = 118-142
}}</ref>
 
===虹とエアリー関数===
虹は光が水滴で反射屈折して生じたものであることは、[[ルネ・デカルト]]の著書
<ref>
理性を正しく導き、学問において真理を探求するための話、加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学(Discours de la methode pour bien conduire sa raison, et chercher la verite dans les sciences(La Dioptrique, Les Meteores, La Geometrie))
</ref>
の中で1637年には既に解明されていた。
しかし、この幾何光学からの解析では、[[虹#過剰虹|過剰虹]]と呼ばれる現象が説明できなかった。
エアリーは、論文"焦線近傍の光強度について"で、光を波として捉えることにより、過剰虹の明暗分布の様子を示す[[エアリー関数]]を導き出してみせた
<ref>Airy, G. B.,
"On the intensity of light in the neighbourhood of a caustic,"
[http://www.archive.org/details/transactionsofca06camb ''Transactions of the Cambridge Philosophical Society'', Vol. 6]
, 1838
, p. 379-402.
</ref>
エアリー関数は、今日では単に虹を表現するだけのものでなく、[[シュレディンガー方程式]]の特定の条件での解として扱われている
<ref>
{{cite web
|url = http://www.th.phys.titech.ac.jp/~muto/lectures/QMII11/QMII11_chap26.pdf
|format = pdf
|title = 東工大 量子力学講義ノート「準古典的近似(WKB近似)」
|accessdate = 2012/8/14
}}
</ref>
 
===エアリーの応力関数===
吊り橋よりも剛性が高く移動荷重となる鉄道用に使える長支間橋梁構造として考え出された{{仮リンク|箱桁橋|en|Tubular bridge}}の解析を通してエアリーは[[構造力学]]にも関与した
<ref name= "材料力学史">{{Cite book|和書
|author=[[ティモシェンコ]]
|translator = 川口昌宏
|title = 材料力学史
|edition = 新装版初版
|year = 2007
|publisher = [[鹿島出版会]]
|isbn = 978-4-306-02390-1
|pages = 143-315
}}</ref>
。彼が提示した{{仮リンク|応力関数|en|Stress functions}}は、その後精緻化され、二次元弾性問題の理論解析に寄与することになる
<ref name = "材料力学史"/>
 
==チャールズ・バベッジとの衝突==
[[チャールズ・バベッジ]]は、エアリーより10歳年上だが、エアリーの跡を継いでケンブリッジ大学[[ルーカス教授職]]となる数学者で、後にコンピュータの父と呼ばれることになる人物である。
政府の予算を得てバベッジが進めていた計算エンジン開発のプロジェクトについて、役にたたないから中止すべきだとエアリーは財務省に進言し、プロジェクトを中止させている
<ref>
{{cite web
|url = http://www.computerhistory.org/babbage/georgeairy
|title = computer history museum "The Babbage Engine"
|accessdate = 2012/8/14
}}
</ref>
バベッジが提唱していた鉄道ゲージにも異を唱えるなど、エアリーとバベッジは、衝突を繰り返した
<ref>{{Cite book
|author = Bruce Collier
|coauther = James MacLahlan
|title = Chales Babbage :and the Engines of Prefection
|year = 1999
|publisher = Oxford University Press
|isbn = 978-0195089974
|url = http://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=-vzMEwf-bHEC&pg=94#v=onepage&q&f=false
|page = 94
|accessdate = 2012/8/14
}}</ref>。
 
==海王星探索の失敗==
ケンブリッジ大学の後輩にあたる[[ジョン・クーチ・アダムズ]]は、天王星の不自然な軌道が未知の惑星による影響だという結論を得てその位置を計算し、結果をエアリーと[[ケンブリッジ天文台]]の[[ジェームズ・チャリス|チャリス]]に渡すが、二人ともフランスの天文学者[[ユルバン・ルヴェリエ|ルヴェリエ]]による計算結果が世に出るまで探索を開始しなかった
<ref name= "ジョンクーチアダムズと海王星">{{cite web
|auther = William Sheehan
|coauther = Steven Thurber
|url = http://rsnr.royalsocietypublishing.org./content/61/3/285.full
|title = John Couch Adams's Asperger syndrome and the British non-discovery of Neptune
|accessdate = 2012/8/14
}}
</ref>
そして後に[[海王星]]と呼ばれるこの惑星の発見は、ドイツの天文学者[[ヨハン・ゴットフリート・ガレ|ガレ]]に先を越されてしまう
<ref name= "ジョンクーチアダムズと海王星"/>
<ref>{{cite web
|url = http://www.gekkou.or.jp/g-8/mini-5.html
|title = サイエンスミニミニ解説(5)天王星と海王星
|accessdate = 2012/8/14
}}
</ref>
エアリーは、彼の取り組む姿勢に問題があったとして、その後、厳しい批判にさらされることになる
<ref name= "ジョンクーチアダムズと海王星"/>
<ref>{{cite journal|和書
|auther = W.シーン、N.コラーストーム、C.B.ワフ
|translator = 勅使河原まゆみ
|date = 2005-3-1
|title = 海王星発見秘話
|journal = 日経サイエンス
|volume = 35
|issue = 3
|pages = 70-78
|publisher = [[日経サイエンス社]]
}}
</ref>
 
== 脚注・出典 ==
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{{先代次代|[[グリニッジ天文台|グリニッジ天文台長]]|1835 - 1881|[[ジョン・ポンド]]|[[ウィリアム・クリスティ (天文学者)|ウィリアム・クリスティー]]}}
{{先代次代|[[王立協会|王立協会会長]]|1871-1873|[[エドワード・サビーン]]|[[ジョセフ・ダルトン・フッカー]]}}
 
==関連項目==
*[[エアリー点]]
*[[エアリー0]]
 
{{Scientist-stub}}