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[[1378年]]、トクタミシュはティムールの支援を受けてキプチャク草原に還り左翼の支配者となると、ジョチ・ウルス右翼(東部)のハン、[[ティムール・メリク (ジョチ家)|ティムール・メリク]](オロスの子とも)をカラタルの戦いで破り、都[[サライ (都市)|サライ]]を征服してジョチ・ウルスのハンに即位した。[[1380年]]には[[クリミア半島]]を本拠地にバトゥ・ウルスの西部で自立していたキヤト部の[[ママイ (キヤト部)|ママイ]]をカルカ河畔の戦いで討ち、ジョチ・ウルスの再統合を達成する。
 
トクタミシュは、ジョチ・ウルスの最盛期の勢威を取り戻すため、1380年に[[クリコヴォの戦い]]で[[モスクワ大公国]]にやぶれたママイを討ってジョチ・ウルスからの独立をはかっていた[[モスクワ大公国]]を襲い、、[[1382年]]には[[モスクワ]]を一時占領した。さらに[[1385年]]からティムールが[[ペルシア]]への3年戦役に出た間隙をついてティムール朝領を攻撃し、旧ジョチ・ウルス領の[[ホラズム]]を占領した。
 
しかし、これによりトクタミシュはティムールと全面的な対立を余儀なくされ、[[1389年]]以来3度にわたる遠征を受けた。[[1395年]]の侵入では、[[カフカス]]から侵入したティムールにテレク河畔の戦いで敗れ、首都サライを破壊された。これによりトクタミシュは没落し、[[マンギト]]部の将軍[[エディゲ]]はティムール・メリクの子ティムール・クトルクをハンに擁立した。