「スウェーデン・ポーランド戦争」の版間の差分

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[[1629年]]2月、[[スタニスワフ・レヴェラ・ポトツキ]]率いた3000の共和国軍は、[[グジュノの戦い]]で[[ヘルマン・ウランゲル]]率いる8000のスウェーデン軍に敗北した。これを重く見た共和国議会([[セイム]])は急遽審議を行い軍事予算の増額を可決した。一方この頃になると、両国共に厭戦気分が漂い始める。特にスウェーデンは戦争に次ぐ戦争で国民の不満が高まっていた([[徴兵]]による死亡率が最悪の局面を迎え、徴兵を嫌がって暴動も頻発していた。以後グスタフ・アドルフは、徴兵のみならず[[傭兵]]の方策を取って戦争を継続していくこととなる)。一方共和国もポーランドおよびリトアニアの国会([[セイム]])の予算審議において多くの貴族が軍事費の増加に次ぐ増加に懸念を表明することになった。結果としてグスタフ・アドルフは、スウェーデン王位を要求するジグムント3世に対し一定の優位に立つこととなり、スウェーデンの王位継承問題に一区切りを見せ始めていた。共和国軍は[[神聖ローマ帝国]]から兵力の支援を受け、スタニスワフ・コニェツポルスキ将軍の活躍によりスウェーデン軍の深部侵攻を阻止することになる。この戦争の最終決戦となったホーニッヒヘルデの戦いで、スタニスワフ・コニェツポルスキ率いる1300騎の[[ユサール#ポーランド騎兵|フサリア有翼重装騎兵団]]、1200騎の[[コサック]]騎馬隊、2000騎の[[黒騎兵]]団から成る総勢4500騎の機動部隊が、グスタフ・アドルフ率いる4000騎の[[胸甲騎兵|スウェーデン胸甲重騎兵軍団]]と5000人の銃砲兵隊から成るスウェーデン軍団に対し打撃を与えると、両国の間で和平の気運が高まった。スウェーデン軍は何とか残軍を維持したものの、共和国との戦争を継続することは困難となった。この状況下において[[フランス王国]]が調停に乗り出すこととなり、共和国も国家財政上の懸念から和議に応じ[[アルトマルク休戦協定|アルトマルクの和議]]によって両国は和睦した。グスタフ・アドルフにとってコニェツポルスキを相手とした連戦連敗は、手痛い誤算であったが、休戦の成立は、共和国との外交上の優位を保った上での撤退の口実となり、三十年戦争への本格介入へ向けて絶好の好機となった。
 
== 講和・影響 ==
 
アルトマルクの和議において、共和国軍は共和国・スウェーデン双方の総大将(スタニスワフ・コニェツポルスキとグスタフ・アドルフ)が現場で指揮したすべての戦闘においてスウェーデン軍に勝利していたものの、被占領地を奪還するまでには至らず、この和議によって実質的には貿易港を譲るなどして侵略者のスウェーデンに多くの利益を供与することとなった。一方、スウェーデンは[[リヴォニア]]([[リーフランド]])を確保するかわりに、プロイセンを共和国を構成するポーランド王国の宗主下に返上した。共和国は、コニェツポルスキが関わった戦闘の勝利が戦争の勝利に結びつかず、スウェーデンは第二期の戦争では苦戦しながらも、北プロイセンとリヴォニアでの拠点を維持していたため、交渉は優位に運び、フランスの調停もあって外交的な勝利を挙げることができた。スウェーデン軍は、ヨーロッパ最強とも言われる共和国の軍事力の前に幾度ともなく壊滅の危機にさらされたが、グスタフ・アドルフによる粘り腰と政治力によって勢力そのものは維持され、共和国から領土を獲得することにも成功した。これは、スウェーデンにもたらされた軍事改革の一定の成果でもあったと言える
 
アルトマルクの和議によって共和国はスウェーデン・ヴァーサ家への王位要求権の主張を取り敢えずは保留したが、これは事実上断念させたことと同義であった。王位要求権に関しては、グスタフ・アドルフの死後に再燃するが、取り敢えず両国は、6年間の休戦期間を得た。その後共和国は、政府財政の再建を含む国力の回復と、[[神聖ローマ皇帝]]へ接近してカトリックの堅守に専念し、スウェーデンはフランスと[[ベールヴァルデ条約]]を結び、[[三十年戦争]]に本格的に介入することとなった。和議において獲得した徴税権[[プロイセン船舶関税]]は、初期スウェーデン戦争における貴重な戦費の一つとなった。
 
その後、6年間の休戦期間が切れると、[[1635年]]に両国は[[アルトマルク休戦協定|ストゥムスドルフの和約]]で正式に講和した。スウェーデンは、[[1632年]]のグスタフ・アドルフの戦死による混乱と、三十年戦争中期の[[ネルトリンゲンの戦い (1634年)|ネルトリンゲンの戦い]]で敗北したため、往時の勢力が減退したことにより、共和国による本土への軍事侵攻を恐れ、共和国と外交交渉を行い、アルトマルクの和議で獲得していた貿易港と徴税権を共和国に返上した。代わりとして共和国は、スウェーデンへの軍事侵攻をしない約束を交わした。これにはスウェーデン本軍がドイツで転戦し、国内が手薄であり、また、王位を継承した[[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ]]が幼く、スウェーデンの統治がままならない時期でもあったからである。しかし共和国は事実上、リヴォニアの大半をスウェーデンによって奪われてしまうこととなった。さらに[[バルト海]]は依然としてスウェーデン優位の下にあり、また、[[ヴワディスワフ4世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ4世]]の海軍増強計画がセイムによって破棄されたことや、共和国が三十年戦争に中立していたこともあり、スウェーデンはその間に勢力を盛り返すことに成功した。グスタフ・アドルフの戦死と言うアクシデントはあったものの、宰相オクセンシェルナによるイニシアティヴによって、三十年戦争が終結した[[1648年]]には、バルト海世界の覇権国そしてヨーロッパでの強国の一つに名実共に登り詰めることとなった。一方その年、共和国においては[[フメリニツキーの乱]]が勃発し、東欧における覇権国である共和国は転機を迎えることとなる。
 
次にスウェーデンとポーランド・リトアニア共和国が交戦するのは、ストゥムスドルフの和約の20年後、共和国で「[[大洪水時代]]」と呼ばれる[[1655年]]のことであった。