「スウェーデン・ポーランド戦争」の版間の差分

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ジギスムンドは、父親はスウェーデン国王[[ヨハン3世 (スウェーデン王)|ヨハン3世]]、母親は[[カタジナ・ヤギェロンカ|カタリーナ]]が共和国合同君主(すなわちポーランド王・リトアニア大公)の[[ジグムント1世]]とその2番目の妃[[ボナ・スフォルツァ]]との間に生まれた娘、すなわちポーランド王女であった。そして将来共和国とスウェーデン王国の国家合同を目指す両国指導層の考えの下に、ポーランド王・リトアニア大公([[選挙王制]]による選挙を経て戴冠)とスウェーデン王([[世襲|世襲王制]]で半ば自動的に戴冠)となる最有力候補として子供のうちにスウェーデンから共和国へ預けられ、母カタリーナの故郷であるポーランド王国首都[[クラクフ]]で、[[対抗宗教改革|対抗宗教改革]]([[カトリック教会|カトリック]]改革)の主導的存在であった[[イエズス会]]によってカトリック教育を受け、自身はカトリック教徒のなかでも非常に先鋭的な思想を持つようになった。
 
ジギスムンドは母カタリーナの意思を継いで、スウェーデンのカトリック勢力と結んでスウェーデン国内における対抗宗教改革を主導した。しかしスウェーデンの指導層の多くは[[ルーテル教会|ルター派]][[プロテスタント]]であり、彼らはスウェーデンでカトリック再[[布教]]を進めようとするジギスムンドを[[国王]]とすることに不満を募らせるようになった。スウェーデン保守派(すなわち[[ルーテル教会|ルター派]][[プロテスタント]]教徒)は[[1598年]]にジギスムンドの[[叔父]]でありジギスムンドの[[摂政]]をつとめていたプロテスタント教徒のカール([[カール9世 (スウェーデン王)|カール9世]])を擁立してジギスムンドを廃位した。
 
これを見たジギスムンドは対スウェーデン戦役など全くの無駄だと主張する[[ヤン・ザモイスキ]]首相や共和国議会([[セイム]])の反対を押し切って独断でスウェーデンに侵攻したがあっけなく撃退された。共和国によるスウェーデン本土侵攻は、これが最後となった。その後両国は、[[リヴォニア]]で対立し、スウェーデンは当初は共和国守備隊を攻撃していくつかの要塞を確保したものの王冠領大ヘトマン(ポーランド王国大元帥)を兼任するザモイスキ首相が陣頭で指揮する共和国軍が進撃してくると拠点を次々と奪還された。
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スウェーデン王となったカール9世が、共和国のザモイスキ首相兼大元帥が体調を崩して一線から退いたことを知って、[[1605年]]にリヴォニアの[[リガ]]に侵攻し包囲戦を行ったもののそれでもリガを陥落させることが出来ず、こんどはリトアニア大ヘトマン(リトアニア大公国[[大元帥]])の[[ヤン・カロル・ホトキェヴィチ]]が率いて進軍して来た共和国軍との[[キルホルムの戦い]]に惨敗、あっけなく撃退された。スウェーデン軍は歩兵9000、騎兵2000から成る大軍で、共和国は重騎兵(ポーランド有翼重騎兵軍団ウィングド・ハッサーすなわち[[ユサール#ポーランド騎兵|フサリア]])2600を主体とした総勢3600の圧倒的少数であったが、戦いが開始されると共和国のフサリア重騎兵はスウェーデン軍に騎馬突撃を行ない、共和国軍の3倍の人員を誇ったスウェーデン王国軍を20-30分のうちに完全粉砕した(スウェーデン側の死者・重傷者・行方不明者は5000-9000人にも及んだ一方、ポーランド側の損害は300人(うち死者100人)に過ぎなかった)。当時のスウェーデンは、軍事力、経済力共に強国との差は歴然で戦争を継続させる国力もなく、17世紀初頭にはヨーロッパの最強国の一つであったポーランド・リトアニア共和国の敵ではなかった。
 
スウェーデンは[[モスクワ大公国]]の大動乱([[スムータ]])に乗じてバルト海沿岸各地の港湾都市に勢力を確保、そのころ[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]がスウェーデン王位を継承する。一方、当初はモスクワ大公国の大動乱への直接介入を控えていた共和国では、ジグムント3世の政治に反対する議会派有志が起こした[[ロコシュ|強訴]]「[[ゼブジドフスキの反乱|ゼブジドフスキの乱]]」において、王は反乱者の不満をロシア政策に振り向けることで事態を収拾しようとし、モスクワへの介入が本格化していく。
 
[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]保守過激派である共和国合同君主ジグムント3世は、ロシア全土のカトリック化を画策していることを隠し、表向きは専制を排した自由な国家連合を結成することを標榜してモスクワ大公国の動乱に介入、快進撃を続けて一時は[[モスクワ]]を占領した。ゼブジドフスキ反乱の参加者たちは恩赦を受けたのち、モスクワ大公国の民主派を支援しようと進軍した。当時のモスクワ大公国では、共和国はそれまでロシア社会を支配していた専制政治に対抗する政治的自由主義の擁護者と見られており、大法官(首相)兼王冠領大ヘトマン(王国大元帥)の[[スタニスワフ・ジュウキェフスキ]]が率いる占領者の共和国軍は、当初はモスクワの[[ボヤーレ]]や市民によって、圧政からの解放者として歓迎されていた。ところが、しばらくしてジグムント3世がカトリック保守過激主義の立場を露わにすると、状況は一変した。モスクワ市民は話が違うとして不満を募らせるようになった。緩やかな自由主義の国家連合を構想して信教の自由をボヤーレやモスクワ市民に約束していたジュウキェフスキ大元帥もジグムント3世に完全に裏切られた形となり、その一方で結果的にモスクワ市民を裏切ってしまった形となった。信教の自由を推すカトリック穏健派と[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]プロテスタントの連合勢力が支配する共和国議会([[セイム]])はこの戦争への非協力の方針を打ち出した。ジュウキェフスキはセイムの決定に従い、遠征軍の主力を率いて[[ワルシャワ]]に帰還するが、共和国内、および共和国とモスクワ大公国との政治的が調整が行われる間、王の配下の守備隊のみがモスクワ市内に残されることになった。残された守備隊は主に[[傭兵]]から成っていて、彼らの一部、特に[[リソフチツィ]]という傭兵集団はモスクワ市内で不法行為を行い、モスクワ市民はこれに怒り、また以前はツァーリ専制体制の立役者だったモスクワの[[ロシア正教]]保守過激派がこの不満にうまく乗ってしまい、[[1612年]]、モスクワ市民は反ポーランド主義の[[ナショナリズム]]で一丸となり、共和国守備隊に対する大反乱を起こした。大反乱の知らせを受けて援軍として駆けつけた前述のヤン・カロル・ホトキェヴィチ率いるリトアニア大公国軍が郊外で頑強な抵抗に遭ってモスクワ市内まで到達できず、[[クレムリン]]に籠城した共和国守備隊は玉砕した。共和国はモスクワ大公国からの全面撤退を決定、それまでに計上した多大な財政的損失の埋め合わせのめどが立たないまま[[1618年]]にモスクワと和睦することになった。このことで共和国の国家財政は大幅に弱体化、以後の対スウェーデン戦争でもこのときの財政的損失が大きく響き、スウェーデンとの間で形勢が逆転していくことになる。
 
一方、スウェーデン王グスタフ・アドルフは、即位直後の[[1611年]]にデンマークと[[カルマル戦争]]を行い、その後ロシア、デンマークとも和睦した。グスタフ・アドルフは、ロシアには有利な講和を締結する事は出来たものの、デンマークには不利な講和を余儀なくされた。これにより、グスタフ・アドルフは、軍事力の更なる強化を目指し、オランダやドイツの軍事体系を取り入れ、共和国など周辺諸国との軍事力の差を埋め合わせるための軍事改革を行った。さらに16111612年に[[宰相]]となった[[アクセル・オクセンシェルナ]]と共に二人三脚で国力の更なる強化を目指して行った。共和国との対立は、単なる王位継承を巡る争いのみではなく両国の政体、両王家の宗派における対立も絡んでいた。そのためにスウェーデンは、[[1600年]]に「[[リンチェピングの血浴]]」を行い、カトリックからの対抗宗教改革を阻んだ。一方で[[中央集権]]化と[[絶対王政]]化は、軍事と国家財政の拡大と効率化を目指した物であり、人的にも物的にも乏しいスウェーデンが国力を高めるためには、軍事を通じた「財政=軍事国家」を形成して行く他なかった。16世紀以降の対外膨張も国外での市場の獲得と[[重商主義]]政策による財源の確保であり、「バルト海支配=バルト帝国」の形成にあった。バルト海へのロシアの進出を阻止しその嚆矢としたグスタフ・アドルフは、両ヴァーサ家を巡る問題と国内的な問題を解消した後にスウェーデンをバルト海世界から脱皮させ、ヨーロッパの大国をとなることを目論むのである。その最大の障害がポーランド・リトアニア共和国の存在であった。
 
そして両者は1621年、再びリヴォニアで相まみえるのである。戦争は、リガ攻略戦となった第一次と、1625年以降の共和国[[本土]][[戦役]]の第二次とに分けられる。