「スウェーデン・ポーランド戦争」の版間の差分

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[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]保守過激派である共和国合同君主ジグムント3世は、ロシア全土のカトリック化を画策していることを隠し、表向きは専制を排した自由な国家連合を結成することを標榜してモスクワ大公国の動乱に介入、快進撃を続けて一時は[[モスクワ]]を占領した。ゼブジドフスキ反乱の参加者たちは恩赦を受けたのち、モスクワ大公国の民主派を支援しようと進軍した。当時のモスクワ大公国では、共和国はそれまでロシア社会を支配していた専制政治に対抗する政治的自由主義の擁護者と見られており、大法官(首相)兼王冠領大ヘトマン(王国大元帥)の[[スタニスワフ・ジュウキェフスキ]]が率いる占領者の共和国軍は、当初はモスクワの[[ボヤーレ]]や市民によって、圧政からの解放者として歓迎されていた。ところが、しばらくしてジグムント3世がカトリック保守過激主義の立場を露わにすると、状況は一変した。モスクワ市民は話が違うとして不満を募らせるようになった。緩やかな自由主義の国家連合を構想して信教の自由をボヤーレやモスクワ市民に約束していたジュウキェフスキ大元帥もジグムント3世に完全に裏切られた形となり、その一方で結果的にモスクワ市民を裏切ってしまった形となった。信教の自由を推すカトリック穏健派と[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]プロテスタントの連合勢力が支配する共和国議会([[セイム]])はこの戦争への非協力の方針を打ち出した。ジュウキェフスキはセイムの決定に従い、遠征軍の主力を率いて[[ワルシャワ]]に帰還するが、共和国内、および共和国とモスクワ大公国との政治的が調整が行われる間、王の配下の守備隊のみがモスクワ市内に残されることになった。残された守備隊は主に[[傭兵]]から成っていて、彼らの一部、特に[[リソフチツィ]]という傭兵集団はモスクワ市内で不法行為を行い、モスクワ市民はこれに怒り、また以前はツァーリ専制体制の立役者だったモスクワの[[ロシア正教]]保守過激派がこの不満にうまく乗ってしまい、[[1612年]]、モスクワ市民は反ポーランド主義の[[ナショナリズム]]で一丸となり、共和国守備隊に対する大反乱を起こした。大反乱の知らせを受けて援軍として駆けつけた前述のヤン・カロル・ホトキェヴィチ率いるリトアニア大公国軍が郊外で頑強な抵抗に遭ってモスクワ市内まで到達できず、[[クレムリン]]に籠城した共和国守備隊は玉砕した。共和国はモスクワ大公国からの全面撤退を決定、それまでに計上した多大な財政的損失の埋め合わせのめどが立たないまま[[1618年]]にモスクワと和睦することになった。このことで共和国の国家財政は大幅に弱体化、以後の対スウェーデン戦争でもこのときの財政的損失が大きく響き、スウェーデンとの間で形勢が逆転していくことになる。
 
一方、スウェーデン王グスタフ・アドルフは、即位直後の[[1611年]]にデンマークと[[カルマル戦争]]を行い、その後ロシア、デンマークとも和睦した。グスタフ・アドルフは、ロシアには有利な講和を締結する事は出来たものの、デンマークには不利な講和を余儀なくされた。これにより、グスタフ・アドルフは、軍事力の更なる強化を目指し、オランダやドイツの軍事体系を取り入れ、共和国など周辺諸国との軍事力の差を埋め合わせるための軍事改革を行った。さらに1612年に[[宰相]]となった[[アクセル・オクセンシェルナ]]と共に二人三脚で国力の更なる強化を目指して行った。共和国との対立は、単なる王位継承を巡る争いのみではなく両国の政体、両王家の宗派における対立も絡んでいた。そのためにスウェーデンは、[[1600年]]に「[[リンチェピングの血浴]]」を行い、カトリックからの対抗宗教改革を阻んだ。一方で[[中央集権]]化と[[絶対王政]]化は、軍事と国家財政の拡大と効率化を目指した物であり、人的にも物的にも乏しいスウェーデンが国力を高めるためには、軍事改革を通じた「財政=軍事国家」を形成して行く他なかった。16世紀以降の対外膨張も国外での市場の獲得と[[重商主義]]政策による財源の確保であり、「バルト海支配=バルト帝国」の形成にあった。バルト海へのロシアの進出を阻止し、その嚆矢としたグスタフ・アドルフは、両ヴァーサ家を巡る問題と国内的な問題を解消した後にスウェーデンをバルト海世界から脱皮させ、ヨーロッパの大国となることを目論むのである。その最大の障がポーランド・リトアニア共和国の存在であった。
 
そして両者は1621年、再びリヴォニアで相まみえるのである。戦争は、リガ攻略戦となった第一次と、1625年以降の共和国[[本土]][[戦役]]の第二次とに分けられる。
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[[1629年]]2月、[[スタニスワフ・レヴェラ・ポトツキ]]率いた3000の共和国軍は、[[グジュノの戦い]]で[[ヘルマン・ウランゲル]]率いる8000のスウェーデン軍に敗北した。これを重く見た共和国議会([[セイム]])は急遽審議を行い軍事予算の増額を可決した。一方この頃になると、両国共に厭戦気分が漂い始める。特にスウェーデンは戦争に次ぐ戦争で国民の不満が高まっていた([[徴兵]]による死亡率が最悪の局面を迎え、徴兵を嫌がって暴動も頻発していた。以後グスタフ・アドルフは、徴兵のみならず[[傭兵]]の方策を取って戦争を継続していくこととなる)。一方共和国もポーランドおよびリトアニアの国会([[セイム]])の予算審議において多くの貴族が軍事費の増加に次ぐ増加に懸念を表明することになった。結果としてグスタフ・アドルフは、スウェーデン王位を要求するジグムント3世に対し一定の優位に立つこととなり、スウェーデンの王位継承問題に一区切りを見せ始めていた。共和国軍は[[神聖ローマ帝国]]から兵力の支援を受け、スタニスワフ・コニェツポルスキ将軍の活躍によりスウェーデン軍の深部侵攻を阻止することになる。この戦争の最終決戦となったホーニッヒヘルデの戦いで、スタニスワフ・コニェツポルスキ率いる1300騎の[[ユサール#ポーランド騎兵|フサリア有翼重装騎兵団]]、1200騎の[[コサック]]騎馬隊、2000騎の[[黒騎兵]]団から成る総勢4500騎の機動部隊が、グスタフ・アドルフ率いる4000騎の[[胸甲騎兵|スウェーデン胸甲重騎兵軍団]]と5000人の銃砲兵隊から成るスウェーデン軍団に対し打撃を与えると、両国の間で和平の気運が高まった。スウェーデン軍は何とか残軍を維持したものの、共和国との戦争を継続することは困難となった。この状況下において[[フランス王国]]が調停に乗り出すこととなり、共和国も国家財政上の懸念から和議に応じ[[アルトマルク休戦協定|アルトマルクの和議]]によって両国は和睦した。グスタフ・アドルフにとってコニェツポルスキを相手とした連戦連敗は、手痛い誤算であったが、休戦の成立は、共和国との外交上の優位を保った上での撤退の口実となり、三十年戦争への本格介入へ向けて絶好の好機となった。
 
== 講和影響 ==
 
アルトマルクの和議において、共和国軍は共和国・スウェーデン双方の総大将(スタニスワフ・コニェツポルスキとグスタフ・アドルフ)が現場で指揮したすべての戦闘においてスウェーデン軍に勝利していたものの、被占領地を奪還するまでには至らず、この和議によって実質的には貿易港を譲るなどして侵略者のスウェーデンに多くの利益を供与することとなった。一方、スウェーデンは[[リヴォニア]]([[リーフランド]])を確保するかわりに、プロイセンを共和国を構成するポーランド王国の宗主下に返上した。共和国は、コニェツポルスキが関わった戦闘の勝利が戦争の勝利に結びつかず、スウェーデンは第二期の戦争では苦戦しながらも、北プロイセンとリヴォニアでの拠点を維持していたため、交渉は優位に運び、フランスの調停もあって外交的な勝利を挙げることができた。スウェーデン軍は、当時ヨーロッパ最強とも言われる共和国の軍事力の前に幾度ともなく壊滅の危機にさらされたが、グスタフ・アドルフによる粘り腰と政治力によって勢力そのものは維持し、国王自身が幾度となく負傷し戦死の危険にさらされるなどの危機的状況を乗り越え共和国から領土を獲得することにも成功した。これは、スウェーデンにもたらされた軍事改革の一定の成果でもあったと言える。
 
アルトマルクの和議によって共和国はスウェーデン・ヴァーサ家への王位要求権の主張を取り敢えずは保留したが、これは事実上断念させたことと同義であった。王位要求権に関しては、グスタフ・アドルフの死後に再燃するが、取り敢えず両国は、6年間の休戦期間を得た。その後共和国は、政府財政の再建を含む国力の回復と、[[神聖ローマ皇帝]]へ接近してカトリックの堅守に専念し、スウェーデンはフランスと[[ベールヴァルデ条約]]を結び、[[三十年戦争]]に本格的に介入することとなった。和議において獲得した徴税権[[プロイセン船舶関税]]は、初期スウェーデン戦争における貴重な戦費の一つとなった。