「北方戦争」の版間の差分

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北方戦争はスウェーデンが起こしたものだが、数年前に勃発したコサックの反乱によりポーランド・リトアニア連合が巻き込まれた大洪水時代と言う[[内戦]]に、近隣諸国が介入したものである。特にスウェーデンはポーランドとの王位継承権問題を抱えており、スウェーデンの新王朝[[プファルツ王朝|プファルツ家]]の王位をポーランド王に認めさせるという意図もあった。この戦争は、当初はスウェーデンが圧倒し、後の両国との[[講和条約]]によりプファルツ王朝を認めさせた事と、1629に成立した[[リーフランド|スウェーデン領リヴォニア]]([[リヴォニア]])を正式にスウェーデン領として認めさせる事が出来たが、反スウェーデン側の抵抗もあり、全てのもくろみが成功に終わった訳ではなかった。ポーランド・リトアニア連合の[[ポーランド分割|分割]]もその一つであったが、スウェーデンによる脅威から連合王国の徹底抗戦と周辺諸国の対スウェーデン戦争を呼び起し、戦域は拡大し、多大な犠牲を強いられる事となった。特にポーランドとの[[同君連合]]下にあった[[リトアニア大公国]]との[[ケダイネイ合同]]は、完全に失敗に終わる事となった。一方、この戦争で一番利益を得たのはブランデンブルク=プロイセンであり、最終的には連合王国下から離脱し正式に独立するのである。
 
モスクワ国家はスウェーデンのポーランドでの成功をみて脅威を感じ、ポーランドとの戦争を一時停止し、1656年からスウェーデンと交戦状態に入った。モスクワ国家はスウェーデンがポーランドで孤立している間、戦争で優位に立ち、フィンランド、エストニア、ラトヴィアなど広大な領土の占領に成功した。しかしウクライナで親ポーランド派が反旗を翻し、ポーランドも停戦を破棄してきたため、この危機に対応する必要からスウェーデンと1658年末に休戦。1661年のカルディス講和条約で占領していたバルト海沿岸の全スウェーデン領の放棄を余儀なくされ、再びポーランドとの戦争を再開する事となる。デンマークとはポーランドからの撤退後に行われ、当初は[[ユトランド半島]]を制圧し[[スコーネ]]を獲得するなどスウェーデンの優勢であったが、スウェーデンのデンマーク征服の野心のために近隣諸国の介入を招いた。さらにスウェーデンはデンマークの首都[[コペンハーゲン]]の攻略に失敗し、戦争は膠着した。