「日本における自動車」の版間の差分

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日本では1898年1月に、フランスからの車が[[築地]]-[[上野]]の間で試運転されたのが最初とされる<ref>出典は庄野新『「運び」の社会史』白桃書房で、原典は東京朝日新聞1898/1/11と同2/1や[[ジョルジュ・ビゴー]]『極東にて』の「自動車に驚く東京市民」</ref>。この頃は輸入に多額の費用が掛かるため、成金と呼ばれた富裕層や、一部の高い身分の人物しか所有できなかったものであり、身分の象徴となっていた。この頃は道路の整備も進んでおらず、自動車の輸入は道路整備のきっかけとなった。
 
当初はアメリカからの輸入がほとんどで、特に[[フォード・モーター]]は[[1925年]]または[[1926年]]<ref>『外国車ガイドブック1991』p.196</ref>横浜に組立工場を建設しトラックを主力として生産を開始、これに遅れて[[1927年]]に[[ゼネラルモーターズ]]が大阪に工場を建設しシボレーブランドを中心に拡販に注力したが、フォード5,000台に対しシボレー500台程度の比率であったという。
=== 国産化 ===
{{main|日本車}}
 
日本の自動車保有台数はその後1000台/年程のペースで微増を続け[[1923年]](大正12年)に12,765台だったが、[[9月1日]]の[[関東大震災]]によって公共交通機関が破壊され自動車の交通機関としての価値が認識されたことにより激増、[[1924年]](大正13年)には24,333台<ref>『外国車ガイドブック1991』p.196</ref>、[[1926年]](大正15年)には40,070台となっていた<ref>『外国車ガイドブック1980』p.44</ref>。[[1929年]]の世界恐慌など逆風が続く中、その後も漸増した。
=== 大衆化 ===
 
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=== 国産化と大衆化 ===
次第に日本国内で軍国主義的傾向が強まり、1935年に国防の観点から自動車製造事業法が制定されて国産トラックの生産を始めるよう方針が定められ、1936年(昭和11年)から本格的に国産自動車の生産が始まった。[[フォード・モーター]]や[[ゼネラルモーターズ]]の工場は業務が不可能となり、撤退を余儀なくされた<ref>『外国車ガイドブック1991』p.197</ref>。
 
日本が第二次世界大戦に敗戦すると日本を占領するため入って来たアメリカ軍人、軍属が大量に自動車を持ち込み、あたかも下駄のように使用した。これを見て日本人は自動車に憧れを持ち、乗用車の潜在的需要が増加した。日本のメーカーも[[連合国軍最高司令官総司令部]]から許可を得て自動車の生産を再開、その後は大量生産によりコスト低下、コスト低下によりさらに販売増加、という循環ができ、日本の自動車産業は急速に発展するとともに大衆化が進んだ<ref>『外国車ガイドブック1980』p.45。</ref>。1965年末の段階での日本の自動車保有台数は8,123,096台に上った<ref>『外国車ガイドブック1980』p.45。</ref>。
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=== 自動車の規制 ===
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都市部の繁華街では自動車の通行を禁止し、歩行者だけの空間とする自治体も出てきた。特定の日に限定して自動車の通行を禁止する[[歩行者天国]]もこれに当たる。
 
=== 輸入促進 ===
日本の自動車産業を発展させるため極度に制限されていた輸入車販売は[[1965年]](昭和40年)になって自由化されたが、輸入台数は[[1979年]]の60,161台をピークに減少に転じ、[[1983年]]には35,286台まで減少した。
 
しかし対ドル円高の恩恵を受けたアメリカ車が1985年モデルから値下げを始め、これに対抗して直接円高と関係なかったヨーロッパ車も努力して価格を下げた。またBMWが[[1984年]]6月に実質金利10%を切る9.5%のオートローンを設定、これに各社が追随したため実質的に安価に購入できるようになった。これと並行して[[バブル景気]]により高級品の消費指向が進み、また住宅の値上がりにより購入を諦めた資金が自動車に流れた。
 
また[[1980年]]に日本車の生産台数はアメリカ車を抜いて世界一になり、またアメリカ市場でのシェアが20%を超えた。このような日本車輸出の隆盛に連れて[[1985年]]頃から貿易不均衡と非関税障壁が問題になり、日本政府は「市場開放と輸入促進のためのアクション・プログラム」を実行に移すこととなった<ref>『外国車ガイドブック1991』p.197。</ref>。運輸省は新型車認定手続きを簡素化したり、メーカーでなければ行なえないテストに運輸省の係員が海外出張して審査するなど輸入促進を図った。また輸入車に不利だった自動車保険を1989年7月1日に国産車と同条件に改訂、[[1989年]]4月に物品税が消費税となり実質的に減税、[[1990年]]4月から大型自動車の自動車税が減税、などの施策も行なわれた。
 
これらのことから輸入車登録台数は[[1984年]]には41,982台と増加に転じ、[[1985年]]50,172台、[[1986年]]には88,357台と過去最高を記録、その後も[[1987年]]97,750台、[[1988年]]133,573台、[[1989年]]180,424台と順調に増加した。
 
== 種類 ==
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近年は経済状況や地球環境への意識、日本の道路環境などが影響してか[[若者の車離れ|特に若年層が車への関心を失っており]]、メーカーの悩みの種となっている。
 
=== モータースポーツ ===
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自動車文化検定なども開催されている。
 
== 参考文献 ==
*『外国車ガイドブック1980』日本自動車輸入組合監修、日刊自動車新聞社発行
*『外国車ガイドブック1988』日本自動車輸入組合監修、日刊自動車新聞社発行
*『外国車ガイドブック1989』日本自動車輸入組合監修、日刊自動車新聞社発行
*『輸入車ガイドブック1990』日本自動車輸入組合監修、日刊自動車新聞社発行
*『輸入車ガイドブック1991』日本自動車輸入組合監修、日刊自動車新聞社発行
*『輸入車ガイドブック1992』日本自動車輸入組合監修、日刊自動車新聞社発行
 
== 脚注 ==
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{{car-stub}}
{{デフォルトソート:しとうしや}}
[[Category:自動車|*]]
[[Category:日本の科学技術‎|しとうしゃ]]