「ダリル・スペンサー」の版間の差分

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Sanoth19 (会話 | 投稿記録)
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{{by|1964年}}に[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]に入団し来日。非常に研究熱心な性格で、すぐに日本の野球に順応した。[[長池徳士]]とともに阪急の主砲として活躍し、打っては36[[本塁打]]、守っては190cm近い大柄な選手(ニックネームが「'''赤鬼'''」だった)でありながら二塁を守り、その豪快かつ緻密なプレーは阪急だけでなく日本球界全体に様々な影響をもたらした。
 
{{by|1965年}}7月16日、[[サイクル安打]]を達成。阪急入団後初めて記録した三塁打がこの記録に結び付いた。しかしこの頃の日本にはサイクル安打という概念がなく、試合後のインタビューでその事に触れる記者はいなかった。これを不思議に思ったスペンサーは「今日自分は、[[単打|シングルヒット]]に[[二塁打]]、[[三塁打]]、本塁打を打った。珍しい記録だと思わないか?」と語り、これをきっかけに記録が洗い直された。その後、サイクル安打達成者には連盟表彰が行われるようになり、様々な節目の記録と同様に記録達成者として公式に名前が残るようになった。
 
また1965年には打撃好調で、当時[[パシフィック・リーグ]]最強打者として君臨していた[[野村克也]]([[福岡ソフトバンクホークス|南海]])と激しい[[三冠 (野球)|三冠王]]争いをした。このとき野村に三冠王を取らせようというような雰囲気があったらしく、スペンサーと対戦する[[投手]]はことごとく[[四球]]攻撃をした。特に8月14日から8月15日にかけては[[千葉ロッテマリーンズ|東京オリオンズ]]の投手陣により8[[打席]]連続で歩かされた。8月15日の[[ダブルヘッダー]]第1試合の先発は「精密機械」の異名をとる大投手[[小山正明]]であったが、スペンサーに対しては4打席全てでストレートの四球であった。第2試合も2打席連続四球で、しびれを切らしたスペンサーは次の打席で[[故意四球|敬遠]]球を無理矢理打ち、連続四球は8打席で終わった。この8打席連続四球は当時の日本記録である。また、10月3日には野村克也率いる南海と対戦。このときスペンサーは[[バット (野球)|バット]]のグリップとヘッドを逆さまに構えて打席に立つという抗議行動に出た。しかし南海は、その打席でもスペンサーを敬遠した。度重なる四球攻撃で徐々に調子を崩し、さらにはシーズン残り2週間というところで交通事故に巻き込まれて左足を骨折し、欠場を余儀なくされた。スペンサーは[[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]のタイトルを獲得したものの、野村の.320、42本塁打、110打点には届かず戦後初の三冠王を許す結果となった。