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'''許 世楷'''(きょ せいかい、[[1934年]][[7月7日]] - )は[[台湾]]の[[政治学者]]、[[歴史学者]]。[[津田塾大学]][[名誉教授]]。元[[台北駐日経済文化代表処]]代表(駐日代表、いわゆる駐日大使に相当)。[[台湾独立運動]]の中心的人物の一人。
 
==経歴==
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===日本での留学・学者生活===
[[国立台湾師範大学]]附属高校(高級中学)を経て、[[1957年]]に[[台湾大学|国立台湾大学]]法学部卒業([[連戦]]国民党名誉主席とは高校・大学の同級生)。その後、[[早稲田大学]]大学院政治研究科で修士課程修了、[[東京大学]]大学院法学政治学を学び、1968年、東京大研究科で博士課程修了(法学博士取得。その後、津田塾大学で[[助教授]][[教授]]として約30年の教員生活を送り、津田塾大学国際関係研究所所長も務めた。[[1972年]][[東京大学出版会]]より『日本統治下の台湾――抵抗と弾圧』を上梓。このなかで「植民地統治では差別待遇が必ずあり、偏見と圧迫の制度のなかで各種の抵抗運動が生まれる。それらの抵抗を根絶する道は、唯一植民地統治制度を徹底的に廃止することにほかならない」と記している。中国語版は[[2006年]]にようやく出版されたが、台湾の学者からは「台湾政治史のバイブルとなる名著であり、台湾史を研究する者にとって必読の歴史専門書」と評されている<ref>[http://www.taiwanembassy.org/ct.asp?xItem=46759&ctNode=3591&mp=202&nowPage=59&pagesize=30 書評:『日本統治下の台湾』中文版は今なお台湾政治史のバイブル](『台湾週報』2006/2/10)</ref>。なお、原著の日本語版は[[2008年]]に復刊している。
 
===台湾独立運動への関与===
日本留学直後の[[1960年]]に台湾独立運動団体「[[台湾青年社]]」(後に台湾青年会・台湾青年独立連盟に改組)に加入して以来、台湾独立運動にも身を投じてきた。機関紙「台湾青年」にペンネーム「十心」「高見信」で数多くの論文を執筆したため、国民党政府により旅券を剥奪、在外反政府分子としてブラックリストに掲載され、約30年間、日本で事実上の亡命生活を余儀なくされた。[[1970年]]「[[台湾独立連盟]]」の発足とともに中央委員に就任。[[1987年]]には、改組された「[[台湾独立建国連盟]]」の総本部主席を務めた。[[1989年]]に台湾の月刊誌『自由時代』に「台湾共和国憲法草案」を寄稿。同誌は発禁処分となり、反乱罪に問われた同誌発行人の[[鄭南榕]](てい・なんよう)は抗議の焼身自殺を遂げた。
 
===帰台後の政治活動===
[[1992年]]、ブラックリストが解除となり帰国。台湾文化学院院長、[[台湾建国党]]主席に就任。[[1995年]][[1998年]]に[[中華民国立法院|立法委員]](国会議員に相当)選挙に立候補するも、落選している。
 
[[2000年]]、[[民進党]]政権が誕生すると、[[呂秀蓮]]副総統の求めに応じて[[総統府]]人権諮問小組の召集人(委員長)および呂副総統主宰の「台湾心会」台中分会会長に就任。[[2003年]]、台湾の民主化に貢献した外国人を招待した催しで、台湾人の人権問題にとりくんだ[[大野正男]]、[[大島孝一]]等に対し感謝の意を述べている。
 
=== 駐日代表就任以後 ===
[[陳水扁]]総統再選を受け、[[2004年]][[7月5日]]、台北駐日経済文化代表処代表(駐日代表)に就任、約4年間務めた。在任中は、「台湾人観光客の査証免除(ノービザ)の恒久化」、「運転免許証の日台相互承認」を実現。日台間で年間250万人が相互に行き来するようになった。
 
[[2008年]]5月、[[中国国民党|国民党]]政権の発足と同時に辞職届を提出したものの、[[馬英九]]総統が慰留。駐日代表ポストの交代が確実視される中、同年[[6月1日]]、日台関係60団体が「許代表夫妻を送る会」を都内で共同開催、[[安倍晋三]]、[[ジュディ・オング]]、[[櫻井よしこ]]ら約800人が駆けつけた<ref>{{Cite news
| url =
| title = 辞令なき送別会に800人 台湾の許世楷・代表送別会
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}}</ref>。
 
同年[[6月15日]]未明、[[尖閣諸島]]沖で航行中の台湾遊漁船が、海上保安庁巡視船と衝突・沈没する事件が発生、即日、[[中華民国外交部|外交部]]が許代表の召還を決定した。帰国直後の16日に[[中華民国立法院|立法院]]外交委員会で事件の経緯を報告する予定だったが、国民党立法委員に「代表のポストにしがみついている」「台奸(台湾の[[売国奴]])」などと非難されたため、急きょ記者会見を開き「士は殺されるべくも、辱められるべからず(士可殺不可辱)」などと強く抗議、立法院での説明を拒否するとともに辞意を表明。外交部は「公務員が首長の許可を得ずして職務を勝手に離れてはならない。これに違反した場合、事の軽重を見て処罰する」と強硬な声明を発表したものの、翌17日、[[馬英九]]総統が辞任を認めた。後任が決定するまで羅坤燦副代表が代表ポストを代行した<ref>{{Cite news
| author = 長谷川周人
| url = http://megalodon.jp/2008-0618-0123-39/sankei.jp.msn.com/world/china/080617/chn0806172233013-n1.htm
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}}</ref>。
 
離日直前の[[7月7日]]、[[産経新聞]]のインタビューで「帰国後は一市民として、(台北ではなく出身地の)台中や彰化で地域のさらなる民主化促進に貢献したい」と話した<ref>{{Cite news
| url =
| title = 馬政権と与党間外交を-離任する台湾駐日代表 許世楷氏
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| date = 2008-07-08
| accessdate =
}}</ref>。現在は、[[台中市]]に居住、[[胡志強]]市長の招聘で台中市政顧問を務めている。
 
==著作==
===単行本===
*許世楷『日本統治下の台湾 : 抵抗と弾圧』東京大学出版会、1972年、2008年復刊(中国語版『日本統治下的台湾』玉山社、2006年)。
*許世楷、原彬久、南塚信吾(編著)『国際関係論基礎研究』福村出版、1976年。
*許世楷、盧千惠『台湾は台湾人の国 天になるごとく、地にもなさせたまえ』はまの出版、2005年。
*許世楷、盧千惠『台湾という新しい国』まどか出版、2010年。
 
===論文・エッセイ===
*「台北駐日経済文化代表処代表 許世楷 もっと台日交流を身近なものに! 例えば、昔は台北と与那国島は自由に人々が行き来していた」『財界』 55(11)(通号1385)2004年、58~61ページ。
*「台湾共和国誕生の日は近い」『中央公論』 108(5)、1993年、162~169ページ。
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*「『朝日新聞』への質問状-台湾人を犠牲にするのか-」『自由』13(5)、1971年 、53~54ページ。
 
===書評・文献紹介===
*「『台湾統治と阿片問題』劉明修著」『史学雑誌』93(4)、1984年、521~527ページ。