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'''パジン'''({{lang-hr|'''Pazin'''}}, {{lang-de|'''Mitterburg'''}}, {{lang-it|'''Pisino'''}}, {{lang-la|(Castrum) Pisinium}})は[[クロアチア]]西部[[イストラ郡]]の都市及び[[基礎自治体]]で、[[2001年]]現在人口は4,986人で基礎自治体全体では9,227人である。パジンはイストラ郡の郡都で[[イストリア半島]]内陸部に位置する。
 
== 歴史 ==
パジンが最初に言及されたのは[[983年]]の ''Castrum Pisinium'' で、[[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|オットー2世]]から司教である[[ポレチ]]に対して行われた寄贈に関する事であった。[[12世紀]]、マイナド・シュヴァルツェンブルク伯爵(Majnard Schwarzenburg,Cernogradus) (Cernogradus))の領地となりパジン伯国が成立する。[[1186年]]に[[ゴリツィア伯国]]{{enlink|County of Gorizia}}のエンゲルベルト3世(Engelbert III)のものとなる。[[1374年]]、ゴリツィア伯国のアルバーベルト3世の遺産は[[ハプスブルク家]]に譲られ、その後領地は様々な一族に渡り最後は[[モンテクッコリ]]家(Montecuccoli)のものとなった。現在の町はほとんどが[[要塞]](モンテクッコリ城)の周辺に造られたものである。[[1805年]]から[[1814年]]までは[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]支配下の[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア王国]]の一部であった。[[1809年]]からはイリュリア県に属している。[[1815年]]以後、パジンは再びハプスブルクの領域となる。[[第一次世界大戦]]後の[[1918年]]には[[イタリア]]領となり、[[1945年]]からは[[ユーゴスラビア]]の[[クロアチア社会主義共和国]]となり[[1991年]]からは現在のクロアチア領となっている。
 
== みどころ ==