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天理教の教師だった[[大西愛治郎]]が[[中山みき]]の後継者であるという啓示を受け(「'''甘露台人の理'''」と呼ばれる)、その事実は天理教内では受け入れられず、やむなく天理教から独立。[[1925年]](大正14年)奈良県で「[[おさしづ]]」を研究する「'''天理研究会'''」を発足させる。[[1928年]](昭和3年)に『研究資料』を発表・配布し、それが、戦争による国家滅亡の危機を予言・警告し、[[昭和天皇]]の神格を否定する内容として、天理研究会の会員らと共に検挙される。不敬罪によって、天理研究会の解散を命じられるも、[[1930年]](昭和5年)、大西愛治郎らが無罪、執行猶予が大審院で判決された。[[1936年]](昭和11年)「'''天理本道'''」と改称し、布教が本格化。大西愛治郎の嘗て居た天理教にも布教がなされた。[[1938年]](昭和13年)『研究資料』と同趣旨の『書信』を発表・配布し、警察当局が国家体制を脅かすものとして、治安維持法違反・不敬罪違反で大西らは再び検挙された。教団に対しては結社禁止命令が、大西愛治郎に対しては無期懲役が言い渡されたが、[[1945年]](昭和20年)に第二次世界大戦が終結すると全員免訴となった。
 
[[1946年]](昭和21年)に大阪府高石市に本部所在地を移転し、[[1950年]](昭和25年)に「'''ほんみち'''」と改称。1950年(昭和25年)11月8日、ほんみち本部は脱税容疑で家宅捜索を受けた<ref>山折哲雄/監修『日本宗教史年表』河出書房新社(2004.2.18)P598</ref> 。大西愛治郎は中山みきの生まれ変わりと次女・[[大西玉]]を養育したが、[[1962年]](昭和37年)大西玉は、ほんみちより「[[ほんぶしん]]」として分離・独立した。大西愛治郎の没後、孫に当たる[[大西泰彦]]が教団を率いている。その後、[[1979年]](昭和54年)に信者ではない者には、未公開だった本部を公開し、[[1980年]](昭和55年)から[[1984年]](昭和59年)まで「ほんみち紹介のつどい」や、[[1989年]](平成元年)からは信者が同伴が条件であるが、「ほんみち神拝殿一般参拝」などが行われている。
 
=== 天理教との相違点・類似点 ===