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'''大竹省二'''(おおたけ しょうじ、{{和暦|[[1920}}年]](大正9年)[[5月15日]] - )は、[[日本]]の[[写真家]]。[[静岡県]]出身。
 
==経歴==
人物を撮影した[[写真]]が中心である。特に[[俳優|女優]]など女性の[[ポートレート]]写真が多い。
 
{{和暦|[[1920}}年]](大正9年)静岡県[[小笠郡]][[大須賀町]](現・[[掛川市]])に生まれる。中学生の頃より[[アサヒカメラ]]などのカメラ雑誌に写真の投稿を始め、コンテストへの入選を重ねる。
10代の後半には有望なアマチュアカメラマンとして著名になった。
{{和暦|[[1940}}年]](昭和15年)[[中国]][[上海市|上海]]在住の伯父を頼り渡航。上海の[[東亜同文書院]]に入学する。この年、学徒応召。{{和暦|[[1942}}年]](昭和17年)応募した写真が農林大臣賞と[[読売新聞社]]賞を同時に受賞する。{{和暦|[[1944}}年]](昭和19年)軍報道部、憲兵司令部で報道写真を担当し[[北京市|北京]]大使館報道部付となる。この時、[[加藤恭平 (写真家)|加藤恭平]]・[[林忠彦]]などと共に北京大使館の外郭団体・華北広報写真協会設立に協力する。
 
{{和暦|[[1945}}年]](昭和20年)中国から[[東京]]に復員。翌、{{和暦|[[1946}}年]](昭和21年)には[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍総司令部]](GHQ)報道部の嘱託となる。{{和暦|[[1949}}年]](昭和24年)[[秋山庄太郎]]、[[稲村隆正]]らと日本青年写真家協会を結成する。{{和暦|[[1950}}INP年]](昭和25年)INP社東京支局の写真部長となるが、人員縮小となったため退社しフリーカメラマンとなる。{{和暦|[[1951}}年]](昭和26年)再刊されたアサヒカメラで世界の一流[[音楽家]]の連載写真を担当することとなり、以後、このシリーズは5年間連載された。{{和暦|[[1953}}年]](昭和28年)秋山庄太郎、林忠彦らと共に[[二科会]]写真部の創立会員となる。
 
{{和暦|[[1970}}年]](昭和45年)アイシンク社を設立し、以後8年間社長を務める。{{和暦|[[1973}}年]](昭和48年)[[松本清張]]原作の『[[砂の器#映画|砂の器]]』が映画化([[映画監督|監督]]・[[野村芳太郎]]、主演・[[加藤剛]])された際に教授役で特別出演した。また、同じく松本清張原作の映画『[[わるいやつら#映画版|わるいやつら]]』(監督・野村芳太郎、主演・[[松坂慶子]])でも部長刑事役で特別出演した。
 
[[ミス・ユニバース]]日本代表だった[[織作峰子]]は大竹に師事し、その後写真家として独立した。
 
{{和暦|[[1992}}年]](平成4年)[[日本写真協会]]功労賞を受賞。{{和暦|[[2003}}年]](平成15年)二科会写真部理事長・創立会員となる。
 
==作品==