「南條範夫」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Tororoimo (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
→‎経歴: 誤字訂正
8行目:
日本経済再建協会の雑誌「経済再建」に随筆を書いていたのが好評だったため、1950年に『[[週刊朝日]]』の懸賞小説朝日文芸賞に応募して入選(「出べそ物語」ペンネーム南条道之介)。1952年に『サンデー毎日』の懸賞小説に入選(「マルフーシャ」)。同年から[[立正大学]]教授。1952年に初めて書いた歴史物「子守の殿」で第1回[[オール讀物新人賞|オール讀物新人杯]]受賞。また1952年『[[サンデー毎日]]』で「『あやつり組』由来記」で入選、千葉賞で佳作。1953年から54年にかけて、「子守の殿」「不運功名譚」「水妖記」「畏れ多くも将軍家」で直木賞候補となる。1956年首都圏整備委員会専門委員。この年に「灯台鬼」で直木賞を受賞<ref>「南条範夫年譜」『カラー版国民の文学』河出書房</ref>。一躍人気作家となり、多くの時代小説、歴史小説を執筆。この頃には経済団体の仕事はやめて、国學院大学と中央大学の講師だけは続けていた。
 
1979年國學院大学を定年となっってた後は小説執筆に専念。多数の作品が映画などで映像化された。陰惨な展開・結末の小説を多く残し、それらは「残酷小説」とも称される。最晩年まで執筆を続け、2004年[[肺炎]]のため死去。享年95。
 
=== 顕彰 ===