「ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)」の版間の差分

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[[デンマーク君主一覧|デンマーク国王]][[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の次男クリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルク(Christian Wilhelm Ferdinand Adolf Georg、{{lang-el|Χριστιανός Γουλιέλμος Φερδινάδος Αδόλφος Γεώργιος}})として、[[首都]][[コペンハーゲン]]で生まれた。デンマーク王子時代は、父方の祖父[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公)|グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルム]]と母方の祖父ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯[[ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム|ヴィルヘルム]]に因んだ“ヴィルヘルム”の名で呼ばれていた。
 
[[1852年]]に、父が嗣子のいないデンマーク国王[[フレゼリク7世 (デンマーク王)|フレゼリク7世]]の継承者に選ばれ、一家はデンマーク王子ならびに王女の称号が与えられることとなった。兄はデンマーク王[[フレゼリク8世 (デンマーク王)|フレゼリク8世]]、姉に[[イギリス君主一覧|イギリス王]][[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]の王妃[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]]、妹に[[ロシア君主一覧|ロシア皇帝]][[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]の皇后[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア(ダウマー)]]、[[ハノーファー王国]]の元王太子[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王太子)|エルンスト・アウグスト]]の妃[[テューラ・ア・ダンマーク (1853-1933)|テューラ]]、弟に[[ヴァルデマー (デンマーク王子)|ヴァルデマー]]がいる。
 
ヴィルヘルムは[[デンマーク海軍]]の士官として活躍するようになったが、1863年3月30日にオソン1世の後継者として[[ギリシャ国王の一覧|ギリシャ国王]]に選出され、父より7ヵ月半先に王位に就くこととなった。
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1864年から1874年にかけて、ギリシアは21回も内閣の交代が起こり、最も長く続いた政権でも、その期間は1年半に過ぎなかった。1874年6月に、[[ハリラオス・トリクピス]]はカイロイ紙に匿名で、安定した政府の欠如による継続的な政治不安は、ゲオルギオス1世と彼の補佐役たちに原因がある、という内容の論説を書いた。論説の中でトリクピスは、国王が少数派内閣を国民に強要することによって、専制君主であるかのように振舞っている、と訴えた。他にも、国王が議会で最多数の支持を得た政治家を首相に指名した場合、政治家たちは連立政権を成立させるために協調せざるを得なくなるり、そのような方法こそが、政治的不安定を収め、群小政党を減らすことに繋がる、と主張した。この論説を書いたとされる人物が逮捕された後、トリクピスは自ら論説を書いたことを認め、身柄を拘束された。しかし、このことが国民からの批判を買ったことにより、トリクピスは釈放され、「憲政秩序毀損」の容疑は無罪判決を受けることとなった。翌年、国王はトリクピスに(最多数を確保することは出来なかったが)政権を構成することを打診し、今後は議会における多数党の代表を首相に指名する、と宣言した。
 
1870年代を通して、ギリシャは[[オスマン帝国]]への圧力を保ち続け、[[イピロス]]と[[テッサリア]]に領土の拡大を求めた。[[1877年]]から[[1878年]]の[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]によって、ギリシャは初の潜在的同盟を得ることとなった。ゲオルギオス1世の妹[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|ダグマー]]は、[[ツェサレーヴィチ|ロシア皇太子]][[アレクサンドル3世|アレクサンドル]]の妻であり、ギリシャが戦争に参加できるよう画策したが、イギリスとフランスによって拒否されることとなり、ギリシャは中立を保持することとなった。1878年に開催された[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]でロシアとオスマン帝国が停戦協定を締結する際、ギリシャは[[クレタ島]]とイピロス、テッサリアに対する権利を主張した。
 
[[1880年]]6月に、イギリスとフランスによって[[オリンポス山]]と[[ヨアニナ]]を含んだギリシャに非常に有利な提案がなされたとき、ギリシャの国境線はまだ確定していなかった。オスマン帝国がこの提案に強く反対した際、トリクピス首相はギリシア軍の動員をほのめかすという過ちを犯した。イギリスはギリシャ側に有利な提案を支持したが、時を同じくして、フランスで首相が[[シャルル・ド・フレシネ]]から[[ジュール・フェリー]]に交代したことによって、列強の間で論難が起き、オスマン帝国はギリシャにテッサリア全域を割譲するが、イピロスは[[アルタ (ギリシャ)|アルタ]]周辺地域のみに留めることを表明した。トリクピス政権が退陣に追い込まれた後、新しく首相となった[[アレクサンドロス・クムンドゥロス]]は、新しい国境線をやむを得ず受け入れた。