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Sat.K (会話 | 投稿記録)
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[[ファイル:JR-Izumo-DD51.jpg|thumb|非電化区間で「出雲」を牽いていたDD51 1186号機]]
客車は、最終期にはJR東日本の[[尾久車両センター]]所属に所属し[[田町車両センター]]常駐していた[[国鉄24系客車|24系25形客車]]が使用され、[[電源車]]を含む9両編成で運転していた。なお、多客期は東京駅 - 米子駅間に3両を増結していた。客車は[[A寝台|個室A寝台「シングルデラックス」]](この車両のみ金帯化はされていない)・開放式[[B寝台]]・「フリースペース」で組成されており、「フリースペース」については営業休止となった[[食堂車]]が使用されていた。
 
牽引機関車は、東京駅 - 京都駅間をJR東日本の[[田端運転所]]に所属する[[国鉄EF65形電気機関車|EF65形1000番台]]が、京都駅 - 出雲市間駅はJR西日本の[[後藤総合車両所]]所属する[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]]が牽引を行い、[[機関車]]の付け替えは京都駅で行われていた。ただし、DD51形の[[車両基地]]が米子駅(後藤総合車両所)にあるため、下り列車は機関車付け替えを行わずに京都駅 - 出雲市駅間を連続してDD51形が牽引しており、上り列車の米子駅で機関車付け替えを行った。
 
====使用車両の変遷====
「出雲」1号が電化工事のため、伯備線経由で迂回運転時はDD51形が岡山駅 → 米子駅間を重連で牽引しており、米子駅 → 岡山駅間DD51形を重連で回送されていた。この迂回運転により、「出雲」3号も京都駅 → 米子駅間を重連で牽引していた(「出雲」4号は通常通り山陰本線で京都駅まで牽引して、その牽引してきたDD51形を所属基地の米子駅まで回送するため)。
 
1972年3月に「出雲」が特急化された時は、[[国鉄20系客車|20系客車]]を使用し、東京駅 - 京都駅間が[[国鉄EF65形電気機関車|EF65形]]、京都駅 - 浜田駅間は当時山陰本線の主力機関車だった[[国鉄DD54形ディーゼル機関車|DD54形]]が牽引していたが、DD54形の故障が続出し問題となったため、1974年度中に[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]]に変更された。
 
1975年に[[国鉄24系客車|24系客車]]が投入されたものの、翌年1976年には[[国鉄24系客車|24系25形]]された。このとき初めて1人用個室[[A寝台]]も同時に連結を行い、1人用個室A寝台には1986年より「シングルデラックス(DX)」と命名されるようになった。当時の「出雲」は国鉄有数の寝台券入手が困難な人気列車として知られており、B寝台車が3段式の24系から2段式の24系25形へ変更による定員減でそれが更に強調される結果となった。1978年10月に「[[#いなば|いなば]]」を米子駅 - 出雲市駅間延長により「出雲」3号・2号に改称し、従来の「出雲」は「出雲」1号・4号と変更された。なお「出雲」3・2号には「いなば」の[[国鉄14系客車|14系客車]]を引き続き使用した。
 
1978年10月に「[[#いなば|いなば]]」を米子駅 - 出雲市駅間延長により「出雲」3号・2号に改称し、従来の「出雲」は「出雲」1号・4号と変更された。
食堂車は、1935年に列車名のない急行化された時から[[食堂車|和食堂車]]を連結していたが、1978年1月に「[[あさかぜ (列車)|あさかぜ]]」1号・4号(いわゆる博多「あさかぜ」)の24系25形化に伴い、食堂車の運用を捻出するため、食堂車は浜田駅までの本編成から出雲市駅までの付属編成へと変更された。この措置は共通運用の「富士」「はやぶさ」についても同様に行われた。食堂車については増備を行わない方針であったため、運行時間が丸一日となる「富士」「はやぶさ」の食堂車を途中折り返しとすることで東京駅に戻る日を一日早めることができた。「出雲」は運行時間から言えば変更によるメリットはなかったが、「富士」「はやぶさ」との共通運用である側杖を被った格好であった。
 
{|style="border:solid 1px #999; padding:1em; float:right; margin:0em 0em 1em 1em; text-align:center; width:15em;"
1991年3月に「出雲」2号・3号にB寝台個室は1人用B寝台個室「シングルツイン」、2人用B寝台個室「ツイン」を連結し、A寝台は開放式から1人用A寝台個室「シングルデラックス」へ変更した。個室A寝台は従来より連結していた「出雲」1号・4号とは異なり、同時期に連結を開始した「あさかぜ」2号・3号および「瀬戸」に準じ、個室B寝台は従前のB寝台個室「ソロ」「デュエット」とは異なる料金を徴するが、同じ形態を持つ「[[トワイライトエクスプレス]]」に準じた室内を持つ車両を連結した。
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|style="background:#eee; border-bottom:solid 4px #999;"|「出雲」3号・2号 編成の変遷
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|「いなば」登場当時の編成図は[[:Template:JNRPC24 Shinagawa Depot 1975-1978#1975-24|こちら]]を参照されたい。
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|style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|出雲市|東京}}
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{|class="wikitable" style="font-size:80%; margin:0em auto;"
|+1984年時点
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|B
|A
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|B
|B
|B
|B
|B
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|style="font-size:80%; text-align:left;"|
;凡例
:A=開放式[[A寝台]]
:B=開放式[[B寝台]]
B寝台は1984年2月1日の時点では3段式寝台であったが、1984年中には2段式に改造されている。
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{|class="wikitable" style="font-size:80%; margin:1em auto;"
|+1991年時点
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|B
|A1
|B1/2
|3B
|B
|B
|B
|B
|}
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|style="font-size:80%; text-align:left;"|
; 凡例
: A1=1人用個室[[A寝台]]「シングルデラックス」
: B=2段式開放[[B寝台]]
: B1/2=1人用B寝台個室「シングルツイン」・2人用B寝台個室「ツイン」合造車
: 3B=3段式開放B寝台
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なお、1987年から翌1988年にかけての一時期、出雲市行きの「出雲」3号は、毎日運転の臨時[[普通列車]]として出雲市駅 → 知井宮駅(現在の[[西出雲駅]])間で延長運転を行っていた。「出雲」3号の車両を回送する際の間合い運用であったが、寝台特急列車の末端区間を普通列車として運転するのは極めて珍しい事例であった。
なお「出雲」3・2号には「いなば」の[[国鉄14系客車|14系客車]]を引き続き使用した。ただし、JR以降JR西日本[[後藤車両所]]
 
1991年3月に「出雲」2号・3号にB寝台個室は1人用B寝台個室「シングルツイン」、2人用B寝台個室「ツイン」を連結し、A寝台は開放式から1人用A寝台個室「シングルデラックス」へ変更した。個室A寝台は従来より連結していた「出雲」1号・4号とは異なり、同時期に連結を開始した「あさかぜ」2号・3号および「瀬戸」に準じ、個室B寝台は従前のB寝台個室「ソロ」「デュエット」とは異なる料金を徴するが、同じ形態を持つ「[[トワイライトエクスプレス]]」に準じた室内を持つ車両を連結した。
 
=====食堂車について=====
食堂車は1935年に列車名のない急行化された時からには[[食堂車|和食堂車]]を連結していたが、1978年1月に「[[あさかぜ (列車)|あさかぜ]]」1号・4号(いわゆる博多あさかぜ」)の24系25形化に伴い、食堂車の運用を捻出するため、食堂車は浜田駅までの本編成から出雲市駅までの付属編成へと変更された。この措置は共通運用の「富士」「はやぶさ」についても同様に行われた。食堂車については増備を行わない方針であったため、運行時間が丸一日となる「富士」「はやぶさ」の食堂車を途中折り返しとすることで東京駅に戻る日を一日早めることができた。「出雲」は運行時間から言えば変更によるメリットはなかったが、「富士」「はやぶさ」との共通運用である側杖を被った格好であった。
 
この当時、食堂車については増備を行わない方針であったため、運行時間が丸一日となる「富士」「はやぶさ」の食堂車を途中折り返しとすることで東京駅に戻る日を一日早めることができた。「出雲」は運行時間から言えば変更によるメリットはなかったが、「富士」「はやぶさ」との共通運用である側杖を被った格好であった。
 
また、「いなば」→「出雲2号・3号」については、1975年の「いなば」運行当初より連結されていたものの、運行時間から営業を行っておらず、1984年の「[[紀伊_(列車)|紀伊]]」廃止に伴う「出雲2・3号」単独運転以降連結を廃止した。
 
====運用上の例外====
 
なお、山陰本線の電化工事により「出雲」1号が電化工事のため、伯備線経由で迂回運転時はDD51形が岡山駅 → 米子駅間を重連で牽引しており、米子駅 → 岡山駅間DD51形を重連で回送されていた。この迂回運転によは、下、「出雲」31も京都駅 → 米子駅間を重連のみ牽引していた(あり、「出雲」4号は通常通り山陰本線で京都駅まで牽引して、その牽引してきたDD51形を所属基地の米子駅まで回送するため、「出雲」3号も京都駅 → 米子駅間を重連で牽引していた
 
なおまた、1987年から翌1988年にかけての一時期、出雲市行きの「出雲」3号は、毎日運転の臨時[[普通列車]]として出雲市駅 → 知井宮駅(現在の[[西出雲駅]])間で延長運転を行っていた。「出雲」3号の車両を回送する際の間合い運用であったが、寝台特急列車の末端区間を普通列車として運転するのは極めて珍しい事例であった。
 
=== いなば ===