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昭和7年(1932年)には東京美術学校図案科教授に就任し、昭和19年(1944年)まで務めている。昭和20年(1945年)、日本標準色協会を[[日本色彩研究所]]に改組し、理事長に就任する。昭和26年(1951年)には、ここで日本初の綜合標準色票『色の標準』を完成する。
 
昭和28年(1953年)、[[大映]]映画『[[地獄門]]』で、色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、この作品で、昭和29年(1954年)の[[第27回アカデミー賞]]で[[アカデミー衣裳デザイン賞|衣裳デザイン賞]]を受賞する。なお、『地獄門』は、同年の[[第7回カンヌ国際映画祭]]においても、その色彩の美しさを高く評価され、[[パルム・ドール]](最高賞[[グランプリ]])を受賞している。晩年は、油彩画の他、工芸や[[水墨画]]にも活躍し、昭和33年(1958年)、[[文化功労者]]に選ばれている。
 
昭和42年(1967年)8月22日、[[嚥下性肺炎]]のため[[東京逓信病院]]で死去。享年84。