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'''源 頼朝'''(みなもと の よりとも)は、[[平安時代]]末期、[[鎌倉時代]]初期の[[武将]]、[[政治家]]であり、[[鎌倉幕府]]の初代[[征夷大将軍]]である。
 
[[平安時代]]末期に[[河内源氏]]の[[源義朝]]の三男として生まれ、父・義朝が[[平治の乱]]で敗れると[[伊豆国]]へ流される。伊豆で[[以仁王]]の令旨を受けると[[平氏]]打倒の兵を挙げ、[[関東地方|関東]]を平定[[鎌倉]]を本拠とする。弟たちを[[代官]]として[[源義仲]]と[[平氏]]を滅ぼすと、戦功のあった末弟・[[源義経]]を追放の後、諸国に[[守護]]と[[地頭]]を配して力を強め、[[奥州合戦]]では[[奥州藤原氏]]を滅ぼすと共に、義経を倒す。[[建久]]3年([[1192年]])に[[征夷大将軍]]に任じられた。
 
これにより[[朝廷]]から半ば独立した政権が開かれた。この政権は後に[[鎌倉幕府]]と呼ばれ、[[幕府]]などによる[[武家政権]]は[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]まで足掛け約680年間に渡り、存続することとなる。
 
なお、[[鎌倉幕府]]の成立は一般に広く認知されている[[1192年]]や[[1185年]]とされる説など諸説あるが[[1185年]]とする説が現在有力である。しかしながら学校などで教わる上では[[1192年]]とされることがほとんどである。
 
== 生涯 ==
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[[久安]]3年([[1147年]])4月8日、[[源義朝]]の三男として[[尾張国]][[熱田区|熱田]]<ref>『[[張州府志]]』に尾張幡屋生まれとある。</ref><ref>『[[尾張志]]』には尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったともある。</ref><ref>『[[尾張名所図会]]』(前編、5巻)には出生地として熱田神宮西の誓願寺が記載されている。</ref><ref>『[[系図纂要]]』にも尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったとある。</ref><ref>出生地とされる熱田神宮西の誓願寺には「右大将頼朝公誕生舊地」と刻まれた石碑が立つ。</ref>(現在の[[名古屋市]][[熱田区]])に生まれる。[[幼名]]は'''鬼武者'''、または'''鬼武丸'''<ref>「鬼武丸」は『[[続群書類従]]』所収の「清和源氏系図」による。「鬼武者」は『[[系図纂要]]』による。</ref>。母は[[熱田神宮]]大宮司[[藤原季範]]の娘の[[由良御前]]。
 
父・義朝は[[清和天皇]]を祖とし、する。[[河内国]]を本拠地とした[[源頼信]]、[[源頼義]]、[[源義家]]らが[[東国]]に勢力を築いた[[河内源氏]]の[[棟梁]]である。義朝は[[保元]]元年([[1156年]])の[[保元の乱]]で、[[平清盛]]と共に[[後白河天皇]]に従って勝利した。頼朝はその御曹司として官職を歴任すると、保元3年([[1158年]])には[[後白河天皇]][[准母]]として[[皇后宮]]となった[[統子内親王]]に仕え皇后宮権少進、保元4年(後に改元して[[平治]]元年)([[1159年]])2月に統子内親王が院号宣下を受け、女院上西門院となると上西門院[[蔵人]]に補された。殿上始が行われた際には[[徳大寺実定]]、[[平清盛]]といった[[殿上人]]が集う中で、[[藤原信隆]]、[[吉田経房|経房]]らとともに献盃役をつとめている<ref>『山槐記』</ref>。また、同年([[1159年]])1月には右近衛将監、6月には[[二条天皇]]の蔵人に補任されている。長兄の義平は無官とみられ、また先に任官していた次兄の朝長よりも昇進が早いことから、母親の家柄が群を抜いて高い頼朝が実質的に義朝の後継者として待遇されていたと考えられる。
 
=== 平治の乱 ===
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保元の乱の後、二条天皇[[親政]]派と後白河[[院政]]派の争い、急速に勢力を伸ばした[[藤原通憲|信西]]への反感などがあり、都の政局は流動的であった。頼朝の父・義朝は[[平治]]元年([[1159年]])12月9日、[[後白河天皇|後白河上皇]]の近臣である[[藤原信頼]]が首謀となった[[平治の乱]]に加わり三条殿焼き討ちを決行した。当初は信西を追討した官軍という立場に立ちその恩賞の[[除目]]で、13歳の頼朝は[[兵衛府|右兵衛権佐]]へ任ぜられる<ref group="注釈">これにより「鎌倉殿」の呼称が定着するまで長く「佐殿(すけどの)」と称された。又吾妻鏡でも元暦二年に従二位に昇叙するまで兵衛府の唐名である「武衛」で記述されている。</ref>。しかし二条天皇側近らの画策で天皇は[[内裏]]から[[六波羅]]の平清盛邸へとうつり、27日、官軍となった[[伊勢平氏|平家]]が賊軍となった信頼らがいる[[大内裏]]へと攻め寄せた。この戦いで信頼方に加わっていた義朝軍は平家に敗れ、一門は官職を止められ京を落ちた。
[[ファイル:Yoritomo map1.png|left|近畿から東海地方の地図]]
義朝に従う頼朝ら8騎は、本拠の東国を目指すが頼朝は途中一行とはぐれ後に[[平頼盛]]の家人[[平宗清]]に捕らえられる。なお頼朝がはぐれて後、父義朝は[[尾張国]]にて[[長田忠致]]に謀殺され、長兄義平は都に潜伏していたところ捕らえられて処刑され、次兄朝長は逃亡中の負傷が元で命を落としている<ref group="注釈">頼朝ら一行の都落ちの状況を示す諸本の記載は下記の通りである。/金比羅系本『[[平治物語]]』によると、一行は[[近江国]]へと至るが、頼朝は[[草津市|野路]]で戦いの疲れから馬上で眠り、一行からはぐれ落人狩りに遭う。一度はこれを切り抜け[[野洲市|野州]]で一行と合流するが、積雪のため一行が馬を下り歩き始めると再びはぐれ、一月中は[[浅井町 (滋賀県)|浅井]]に身を潜める。その間に一行は、義朝の妻子が住む[[美濃国]][[大垣市|青墓]]へ至るが、ここで傷を負った次兄・[[源朝長]]を亡くし、す。父・義朝は尾張国[[美浜町 (愛知県)|野間]]で[[長田忠致]]の裏切りにより討たれる。それを知った長兄・[[源義平]]は、清盛らを一人でも討とうと京に戻り、以前の郎党と共に変装して清盛暗殺の機会を狙うが、捕えられ[[六条河原]]で首を斬られた。頼朝は雪が消えると浅井を発ち、青墓を経て尾張へと至るが捕えられた。/『清檞眼抄』(当時の検非違使の記録)によると二月九日近江国で頼朝が捕らえられたとある。/『[[吾妻鏡]]』は大夫属定康というものが大吉寺や私邸に匿ったとする。/古態本『平治物語』によると頼朝は近江国大吉寺に匿われた後、近江浅井北郡の老夫婦の元に匿われ、その後関ヶ原において捕らえられたとある。/なお金比羅系本『平治物語』以外の文献には頼朝が美濃青墓へ行ったとの記載は一切無い。</ref>。[[永暦]]元年([[1160年]])2月9日、京・六波羅へ送られた頼朝<ref name="seisyou">『[[清檞眼抄]]』</ref>の処罰は死刑が当然視されていたが、清盛の継母・[[池禅尼]]の嘆願などにより死一等を減ぜられて伊豆に流刑になることとなった。<ref group="注釈">『平治物語』によると、池禅尼のこの助命嘆願は早世した我が子・[[平家盛]]に頼朝が似ている事から清盛に助命を請うたといわれている。『愚管抄』によると、見るからに幼いのに同情して助命嘆願したと言われている。なお、助命嘆願には後白河院、[[統子内親王|上西門院]]の意向が働いていたとの説もある。(元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』)。また、平治の乱の本質は院近臣同士の争いであり、義朝は信頼に従属する者の一人に過ぎず、乱における義朝の立場は従来考えられているものより実は影響力の弱い立場であり、従ってその子供達の処分は軽度のものであったのも当然である、という見解も示されている(野口実『源氏と坂東武士』)。</ref>、頼朝は3月11日に[[伊豆国]]の[[蛭ヶ小島]](ひるがこじま)<ref group="注釈">[[摂津源氏]]の[[源仲綱]]が伊豆守を勤めていたとの説もある。</ref>へと流された。なお、同日平治の乱に関った[[藤原経宗]]、[[藤原惟方]]や同母弟[[源希義|希義]]も流刑に処されている<ref name="seisyou" />。
 
=== 伊豆の流人 ===
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流人とはいえ、[[乳母]]の[[比企尼]]や母の弟である[[祐範]]の援助を受け、狩りを楽しむなど比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。周辺には比企尼の婿である[[安達盛長]]が側近として仕え、[[源氏]]方に従ったため所領を失って放浪中の[[佐々木定綱]]ら四兄弟が従者として奉仕した。この地方の霊山である[[箱根権現]]、[[走湯権現]]に深く帰依して読経をおこたらず、亡父[[源義朝|義朝]]や源氏一門を弔いながら、一地方武士として日々を送っていた。そんな中でも乳母の甥・[[三善康信]]から定期的に京都の情報を得ている<ref name="azumakagami">『[[吾妻鏡]]』</ref>。なお、この流刑になっている間に伊豆の[[豪族]][[北条時政]]の長女である[[北条政子|政子]]と婚姻関係を結び長女[[大姫 (源頼朝の娘)|大姫]]をもうけている。この婚姻の時期は大姫の生年から[[治承]]2年([[1178年]])頃のことであると推定されている。
 
なお、フィクション性が高いとされる『[[曽我物語]]』には次のような記載がある。[[仁安 (日本)|仁安]]2年([[1167年]])頃、21歳の頼朝は[[伊東祐親]]の下に在った。ここでは後に家人となる[[土肥実平]]、[[天野遠景]]、[[大庭景義]]などが集まり狩や相撲が催されている。しかし祐親が在京の間にその三女[[八重姫 (伊東祐親の娘)|八重姫]]と通じて子・千鶴丸を成すと、祐親は激怒し平家への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨て、八重姫を江間小四郎<ref group="注釈">時政の次男・[[北条義時]]の通称と同名だが別人である。この時に義時は4歳ほど。</ref>の妻とし、頼朝を討たんと企てた。祐親の次男[[伊東祐清]]からそれを聞いた頼朝は[[走湯権現]]に逃れて一命を取り留めた。頼朝29歳頃の事件であった。31歳の時、頼朝監視の任に当たっていた北条時政の長女である21歳の[[北条政子|政子]]と通じる。時政は[[山木兼隆]]に嫁がせるべく政子を兼隆の下に送るが、政子はその夜の内に抜け出し、頼朝の妻となった<ref group="注釈">政子と山木兼隆との婚儀については、兼隆の伊豆配流が1179年であり、長女大姫が1178年に誕生している事から物語上の創作と思われる。</ref>。
 
=== 挙兵 ===
{{Main|治承・寿永の乱}}
[[ファイル:Yoritomo map2.png|left|伊豆地方の地図]]
[[治承]]4年([[1180年]])、[[後白河天皇|後白河法皇]]の皇子である'''[[以仁王|高倉宮以仁王]]'''が[[平氏]]追討を命ずる[[令旨]]を諸国の[[源氏]]に発令。4月27日、[[伊豆国]]の頼朝にも、叔父・[[源行家]]より令旨が届けられる。以仁王は[[源頼政]]らと共に[[宇治市|宇治]]で敗死するが、頼朝は動かずしばらく事態の成り行きを静観していた。しかし平氏は令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、その動きを知り自分が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意すると、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけた<ref group="注釈">この挙兵決意には都の三善康信の知らせやの京より下った[[三浦義澄]]、[[東胤頼|千葉胤頼]]らの言葉があったとも言われている(『吾妻鏡』)。</ref>。<ref group="注釈">なお、平氏側の本来の追討目的は伊豆に潜伏していた源頼政の孫の源有綱で頼朝が狙われていたというのが誤報であり、知行国主の交代によって厳しい立場に立たされた在庁官人で頼政の家人であった工藤茂光が有綱の代理として頼朝を持ち出したという見解も示されている(永井晋『鎌倉源氏三代記』(吉川弘文館))。</ref>
 
挙兵の第一攻撃目標は伊豆国[[目代]]山木兼隆と定められ、[[治承]]4年([[1180年]])8月17日頼朝の命で北条時政らが伊豆国韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃、兼隆を討ち取った<ref name="azumakagami" /><ref group="注釈">『吾妻鏡』の記載する頼朝の挙兵の詳細は以下の通りである。挙兵の吉日を占いで定めると、当時身辺に仕えていた[[工藤茂光]]、[[土肥実平]]、[[岡崎義実]]、[[天野遠景]]、[[佐々木盛綱]]、[[加藤景廉]]を一人ずつ私室に呼び、「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と伝える。皆に自身のみが抜群の信頼を得ていると思わせ奮起させたのである。挙兵の前日、参着を命じていた佐々木盛綱ら兄弟が参じず、頼朝は兄弟に計画を漏らした事を頻りに後悔する。しかし当日の8月17日昼、急ぎ疲れた兄弟が到着すると、頼朝は感涙を浮かべてねぎらい、深夜に[[佐々木定綱]]、[[佐々木経高|経高]]、盛綱、[[佐々木高綱|高綱]]、加藤景廉を従え平兼隆を討ち、平家打倒の兵を挙げた。</ref>。
 
伊豆を得た頼朝は[[相模国]]土肥郷へ向かう。従った者は[[北条義時]]、[[工藤茂光]]、土肥実平、[[土屋宗遠]]、[[岡崎義実]]、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、[[加藤景廉]]らであり、さらに[[三浦義澄]]、[[和田義盛]]らの三浦一族が頼朝に参じるべく[[三浦半島|三浦]]を発した。しかし三浦軍との合流前の23日に[[石橋山の戦い]]で、頼朝らは平家に仕える[[大庭景親]]、[[渋谷重国]]、[[熊谷直実]]、[[山内首藤経俊]]、伊東祐親ら三千余騎と戦い、三百騎を率いる頼朝は敗れ、土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた<ref group="注釈">『吾妻鏡』には次のようなエピソードがある。平家方は頼朝を捜し[[梶原景時]]は居所を知るが、景時は「ここに人跡は無い」と大庭景親に述べ他の峰に誘った。この間に頼朝は3歳より奉っていた観音像を岩窟に隠し、実平に対し「首を景親らに伝う日、この本尊を見て源氏の大将に非ざる由、必ず誹りを招く」と述べた。</ref>。数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、8月28日に[[真鶴町|真鶴岬]]から船で[[安房国]]へと向かう<ref name="azumakagami" />。
 
=== 関東平定 ===
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10月16日、頼朝追討の[[宣旨]]を受けた[[平維盛]]率いる数万騎が[[駿河国]]へと達すると、これを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に[[黄瀬川]]で武田信義、北条時政らが率いる2万騎と合流する。20日、[[富士川の戦い]]で維盛軍と対峙するが、撤退の最中に水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛軍は潰走し、頼朝軍はほとんど戦わずして勝利を得た<ref group="注釈">この戦いに勝利したのは甲斐源氏であり頼朝軍その背後にあって平家軍とは直接戦っていないという見方もある。(上杉和彦『戦争の日本史 6 源平の争乱』吉川弘文館)</ref>。翌日には上洛を志すが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らは[[常陸源氏]]の[[佐竹氏]]が未だ従わず、まず東国を平定すべきであると諌め、頼朝はこれを受け容れ黄瀬川に兵をかえした。この日、[[奥州]]の[[藤原秀衡]]を頼っていた異母弟・[[源義経]]が参じている<ref name="azumakagami" />。
 
帰途、相模国府で初めての勲功の賞を行い、捕えた大庭景親を誅すると、[[佐竹秀義]]を討つべく再び鎌倉を発し、す。11月4日に[[常陸国]]府へと至る。戦いは上総広常の活躍により秀義を逃亡させ終わった([[金砂城の戦い]])。頼朝は秀義の所領を勲功の賞に充て、鎌倉へ戻ると和田義盛を[[侍所]]の[[別当]]に補す。侍所は後の[[鎌倉幕府]]で[[軍事]]と[[警察]]を担う事となる<ref name="azumakagami" />。
[[ファイル:Enoshima_shrine_okutsumiya.jpg|thumb|230px|頼朝寄進江島神社奥津宮鳥居]]
[[治承]]4年([[1180年]])末までには、九州筑紫地方、四国伊予の[[河野氏]]、[[近江源氏]]、甲斐源氏、[[信濃源氏]]らが反平氏の挙兵をし、全国で反平氏の活動が活発となる<ref name="gyokuyou">『[[玉葉]]』</ref>。平氏も[[福原京|福原]]から京都に都を移して反撃に転じ近江源氏や[[奈良|南都]]などの畿内寺社勢力を鎮圧する。しかし[[養和]]元年([[1181年]])に入ると、[[肥後国]]の[[菊池高直]]、[[尾張国]]に拠る[[源行家]]、[[美濃国]]の[[美濃源氏]]一党なども平氏打倒の兵を挙げ、反平氏の活動はより一層活発化した。その混乱のさなか閏2月4日、平清盛が熱病で世を去った<ref group="注釈">その遺言は「わが子孫、一人と雖も生き残りなば骸を頼朝の前さらすべし」であったともいう(『玉葉』)。</ref>。全国的な反乱が続く中、平家は兵を派遣して美濃源氏を鎮圧し、ついで清盛五男の[[平重衡]]は尾張以東の東国征伐に向かう。重衡は行家らを[[伊勢国|伊勢]]と尾張の国境[[墨俣川の戦い]]にて打ち破り尾張を制圧、頼朝は[[和田義盛]]を遠江に派遣するが、平家はそれ以上は東に兵を進めず都に戻った<ref name="kituki">『[[吉記]]』</ref>。
 
7月頃、頼朝は後白河法皇に自分に朝廷に対する[[謀反]]の心はない、平氏と和睦しても構わないという趣旨の書状を送るが、清盛の後継者である[[平宗盛|宗盛]]は清盛の遺言を理由にその和平提案を拒否した<ref name="gyokuyou" />。その一方で奥州の藤原秀衡を[[陸奥守]]に任じ、秀衡に頼朝追討協力を期待する<ref name="gyokuyou" />。一方その頃平氏の攻撃の矛先は頼朝ではなく、養和元年(1181年)6月の[[横田河原の戦い]]以降活発化した[[若狭国|若狭]]、[[越前国|越前]]などの北陸反乱勢力に差し向けられることとなった<ref name="gyokuyou" />。また、[[遠江国|遠江]]には未だ独立的立場をとる甲斐源氏の[[安田義定]]がおり頼朝が平氏勢力と直接対峙することはこの時期なかった。しかし、北方に勢力をはる[[奥州藤原氏]]の動向はわからず頼朝は坂東から身動きのとれない状態が続く。翌年の[[寿永]]元年([[1182年]])は天候不順による[[養和の飢饉|養和の大飢饉]]により平氏は追討活動を行なうことができなかった。その年頼朝は[[伊勢神宮]]に平氏打倒の願文を奉じ、藤原秀衡の調伏を祈願すると[[江ノ島]]に[[弁才天]]を勧請する<ref name="azumakagami" />。また同年8月に妻政子が嫡男の[[源頼家]]を出産している<ref group="注釈">政子の安産祈願のために[[鶴岡八幡宮]]の参道を御家人らと共に自ら手で築く。また政子の妊娠中に[[亀の前]]と密通し、それを知った政子に亀の前の住む家を破却されている(『吾妻鏡』)。</ref>。
 
[[寿永]]2年([[1183年]])2月、常陸に住む叔父・[[源義広 (志田三郎先生)|源義広]]が、[[足利忠綱]]らとともに21日に鎌倉を攻めるべく兵を挙げた。この頃、主な御家人らは平氏の襲来に備え[[駿河国]]に在ったため、対応に苦慮した頼朝はそれを[[小山朝政]]らに託し、す。自らは鶴岡八幡宮で東西の戦いの静謐を祈る。朝政らは[[野木宮合戦]]で義広らを破り、逃げる義広の兵を頼朝の異母弟である[[源範頼]]らが討った<ref name="azumakagami" />。頼朝は義広とそれに与した武士の所領を自らの御家人に与える。これにより関東で頼朝に敵対する勢力は無くなった<ref>常陸においては佐竹氏が未だに反抗していたとの見方もある。詳細は[[金砂城の戦い]]参照</ref>。
 
=== 義仲との戦い ===
[[寿永]]2年([[1183年]])春、以仁王の令旨を受けて挙兵していた従兄弟の[[源義仲]]が、頼朝に追われた叔父の源義広・源行家を庇護した事により、頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。しかし、両者の話し合いで義仲の嫡子[[源義高 (清水冠者)|義高]]を頼朝の長女[[大姫 (源頼朝の娘)|大姫]]の婿として鎌倉に送る事で合意し、和議が成立した<ref group="注釈">『平家物語』『源平盛衰記』ではこのあたりを次のように記している。[[相模国]][[松田町|松田]]に住んでいた源行家より所領を望まれ、頼朝が断ると行家は越後の義仲に従うべく[[信濃国]]へと走った。頼朝は[[武田信光]]の讒言を受け義仲を討つべく鎌倉を発する。義仲は越後国[[妙高市|関山]]で2,000余騎を率い待ち構え、頼朝は10万余騎を率いて信濃国佐樟川へ陣を取った。義仲は劣勢を悟ると越後国府へと戻り、頼朝に忠誠を誓う書状を送る。頼朝は天野遠景と岡崎義実を使者として返し、す。行家か義仲の嫡男義高を差し出すように求める。義仲はこの時11歳の義高を差し出すと、頼朝は義高を鎌倉に住まわせ、6歳の長女大姫の婿とした。</ref>。
 
義仲は行家・義広と共に平氏との戦いに勝利を続け、7月に平氏一門が[[安徳天皇]]と共に都を落ちると、大軍を率いて入京し、する。[[後白河天皇|後白河法皇]]に召され[[平宗盛]]ら平氏追討の命を得る。しかし寄せ集めである義仲の軍勢は統制が取れておらず、飢饉に苦しむ都の食糧事情を悪化させ、また義仲が皇位継承に介入した事により院や廷臣たちの反感を買った<ref name="gyokuyou" />。[[朝廷]]と京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇は義仲を西国の平氏追討に向かわせ、代わって頼朝に上洛を要請する。しかし10月7日、頼朝は使者を返して要請を断った。その理由として、一つは[[藤原秀衡]]と[[佐竹隆義]]に鎌倉を攻められる恐れ、二つは数万騎を率い入洛すれば京がもたないとしている。10月9日に朝廷は[[平治の乱]]で止めた頼朝の位階を復した。14日には[[東海道]]と[[東山道]]の所領を元の[[本所]]に戻しその地域の年貢・官物を頼朝が進上し、その命令に従わぬ者の沙汰を頼朝が行なうという内容の宣旨が下された([[寿永二年十月宣旨]])<ref name="gyokuyou" />。頼朝は既に実力で制圧していた地域の所領の収公や御家人の賞与罰則をおこなっていたが、それは朝廷からみれば非公式なものであった。寿永2年10月に宣旨が下されたことにより、当初「反乱軍」と見なされていた頼朝率いる鎌倉政権は朝廷から公式に認められる勢力となった。同年12月には、広常が頼朝の命令で[[梶原景時]]に誅殺されている。
 
閏10月15日、頼朝の上洛を恐れる義仲は、平氏追討の戦いに敗れると京に戻り、頼朝追討の命を望むが許されず、11月には頼朝が送った[[源義経]]率いる軍が[[近江国]]へと至る。平家と義経に挟まれた義仲は、院を攻め後白河法皇を拘束すると、頼朝追討の宣旨を引き出し、す。寿永3年([[1184年]])1月には[[征東大将軍]]に任ぜられる。しかし20日に[[源範頼]]と義経は数万騎を率いて京に向かい、防ぐ義仲は近江国[[大津市|粟津]]で討たれた。
 
頼朝は鎌倉に在った義高の殺害を企て、これを大姫が義高に伝えると、4月21日に義高は女房に扮し鎌倉を逃れた。頼朝は怒って[[堀親家]]に命じて追手を発し、す。24日に[[武蔵国]]入間川原で義高を討つ。大姫は嘆き悲しみ、憤った母の[[北条政子|政子]]は義高を討った家人を梟首するが、大姫はその後も憔悴を深め、後にわずか20歳で亡くなる事となる。
 
=== 平氏追討 ===
義仲を討った範頼と義経は、平氏を追討すべく京を発し、つ。[[元暦]]元年([[1184年]])2月7日、[[摂津国]][[一ノ谷の戦い]]で勝利し、を治める。[[平重衡]]を捕え京に連れ帰った<ref name="gyokuyou" /><ref name="azumakagami" />。この戦いの後、頼朝は義経を自らの代官として都に残し、す。義経の差配のもと畿内の武士たちの掌握につとめる。その一方で頼朝は[[四国]]に逃れた平氏を更に追討すべく、[[九州]]・四国の武士に平氏追討を求める書状を下すと、土肥実平や梶原景時を山陽諸国に派遣する。
 
6月5日[[平頼盛]](命の恩人[[池禅尼]]の子)<ref group="注釈">頼朝は義仲失脚にあたって[[平治の乱]]で命を救われた[[池禅尼]]の息子である平頼盛を通じて法皇と交渉を行っており、頼盛が鎌倉へ下った際、平氏都落ちの際奪われていた官職と荘園を戻させ、手厚くもてなしている(『吾妻鏡』)。</ref>、鎌倉に戻った範頼、[[源広綱]]、[[平賀義信|源義信]]が国司となり頼朝自身は知行国主となった。一方で[[甲斐源氏]]の[[一条忠頼]]が鎌倉に於いて、頼朝の命令で[[天野遠景]]に誅殺されている。また[[一条能保]](同母姉妹の夫)らの官位を朝廷から得た<ref name="azumakagami" /><ref group="注釈">なおこのとき義経は任官から漏れて、後に頼朝に無断で検非違使の官位を得たことで怒りを買ったとされている。しかしこの任官が頼朝の不興を買ったという話は最近では否定的な見方をされつつある。また、義経が西国攻めを任されなかった理由としてには、義経は「京都の治安維持」を要請されその必要上西国に出兵させることができなかった(菱沼一憲『源義経の合戦と戦略』)一ノ谷の戦いの直後伊勢・[[伊賀国|伊賀]]で平氏の残党勢力が反乱を起こしたために出撃できなかった(元木泰雄『源義経』)等の説が提示されている。</ref>。8月8日範頼を大将とする平氏追討軍が鎌倉から出陣する。従わせた家人は[[北条義時]]、[[足利義兼]]、[[千葉常胤]]、[[三浦義澄]]、[[小山朝光]]、[[比企能員]]、[[和田義盛]]、[[天野遠景]]らである。頼朝は範頼に対し京への駐留を禁じており、追討軍は27日に京へ入ると29日に平氏追討使の官符を賜い、9月1日には西海へと赴いた<ref name="azumakagami" />。
 
10月6日、公文所を開き[[大江広元]]を別当に任じる。公文所は後に[[政所]]と名を改め、後の[[鎌倉幕府]]における政務と財政を司る事となる<ref name="azumakagami" />。20日には訴訟を司る[[問注所]]を開き、[[三善康信]]を執事とする<ref name="azumakagami" />。この時期になると[[二階堂行政]]、[[平盛時 (鎌倉幕府政所知家事)|平盛時]]ら中下級の有能な官人達が才能を発揮する場を求めて鎌倉に下向するようになり、彼らが幕府初期官僚組織を形成する。
 
[[文治]]元年([[1185年]])1月6日、西海の範頼から兵糧と船の不足、関東への帰還を望む東国武士達の不和など窮状を訴える書状が届く。頼朝は[[安徳天皇]]や[[平徳子|建礼門院]]の無事と、軍を動かさず筑紫の武士からくれぐれも反感を得ぬ様に記した書状を返し、す。九州の武士には、範頼に従い平氏を討つ事を求める<ref name="azumakagami" />。この状況をみた義経は後白河法皇に西国出陣を奏上してその許可を得た<ref group="注釈">『吾妻鏡』元暦2年(1185年)正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』同日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある(宮田敬三「元暦西海合戦試論-「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討-」『立命館文学』554、1998年)。</ref>。10日、義経は[[讃岐国]][[屋島]]に拠る平氏追討へ向かう。26日、九州の武士から兵糧と船を得た範頼は、[[周防国]]から[[豊後国]]へと渡る。2月19日、義経は[[屋島の戦い]]で平氏を海上へと追い、3月24日、[[壇ノ浦の戦い]]で安徳天皇ら平氏一門は入水し、[[平宗盛]]、建礼門院らを捕え、遂に平氏を滅ぼした。
 
4月27日に平宗盛を捕らえた功により、[[従二位]]へ昇った。
 
=== 義経追放 ===
[[文治]]元年([[1185年]])4月、平氏追討で[[侍所]]所司として[[源義経|義経]]の補佐を務めた[[梶原景時]]から、義経を弾劾した書状が届く<ref group="注釈">それには義経の専横や東国武士達の反感が記されていたとされている(『吾妻鏡』)。</ref>。4月15日、頼朝は内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士ら<ref group="注釈">無断任官者は兵衛尉義廉、[[佐藤忠信]]、[[師岡重経]]、[[渋谷重助]]、小河馬允、[[後藤基清]]、馬允有経、[[梶原友景]]、[[梶原景貞]]、[[梶原景高]]、[[中村時経]]、[[海老名季綱]]、馬允能忠、[[豊田義幹]]、兵衛尉政綱、兵衛尉忠綱、[[平子有長]]、[[平山季重]]、[[梶原景季]]、縫殿助、宮内丞舒国、[[山内首藤経俊]]、[[八田知家]]、[[小山朝政]]ら24名。</ref>に対し、任官を罵り東国への帰還を禁じる<ref group="注釈">この事件は、義経との関連で論じられることが多いが、「自由任官の禁止」(ただし、従者・郎党を持つ権門であればこうした規制は一般的であった)・「成功の重視」(鎌倉幕府が官職を推挙する際には朝廷への[[成功_(任官)|成功]]を果たした者から推挙する)・「任官後の在京勤務励行」(朝幕関係と東国を領域とする幕府支配の固有性を維持のバランスを重視する。なお、この方針により翌年2月2日に配下の御家人の任官返上を朝廷に申し出ている(『吾妻鏡』))という、鎌倉幕府の朝廷官職に対する基本政策が示された点が重要である(上杉和彦「鎌倉幕府と官職制度」『日本中世法体系成立史論』校倉書房、1996年(原論文は『史学雑誌』99巻11号、1990年))。</ref>が、同じく任官を受けた義経には咎めを与えなかった。景時の書状の他にも、範頼の管轄への越権行為、配下の東国武士達への勝手な処罰など義経の専横を訴える報告が入り、5月、御家人達に義経に従ってはならないという命が出された。その頃義経は[[平宗盛]]父子を伴い[[相模国]]に凱旋する。しかし頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れる。[[腰越]]に留まる義経は、許しを請う[[腰越状]]を送るが、頼朝は宗盛との面会を終えると、義経を鎌倉に入れぬまま、6月9日に宗盛父子と[[平重衡]]を伴わせ帰洛を命じる。義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と言い放つ。これを聞いた頼朝は、義経の所領を全て没収した<ref name="azumakagami" /><ref group="注釈">延慶本『平家物語』によると義経は鎌倉入りを許され頼朝と対面、慰安されたのち鎌倉のはずれで待機されたとされている。</ref>。
 
義経が[[近江国]]で宗盛父子を斬首し、重衡を自身が焼き討ちにした[[東大寺]]へ送ると、8月4日、頼朝はかつて[[源義仲]]に属した叔父[[源行家]]の追討を[[佐々木定綱]]に命じた。9月に入り京の義経の様子を探るべく[[梶原景季]]を遣わすと、義経は痩せ衰えた体で景季の前に現れ、行家追討の要請を受けると、自身の病と行家が同じ[[河内源氏|源氏]]である事を理由に断った。10月、鎌倉に戻った景季からの報告を受けた頼朝は、義経と行家が通じていると断じ、義経を誅するべく家人の[[土佐坊昌俊]]を京に送る。対して義経は、頼朝追討の勅許を[[後白河天皇|後白河法皇]]に求めた。10月17日、頼朝の命を受けた土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲ったが、応戦する義経に行家が加勢し、する。襲撃は敗北に終わる。義経は土佐坊が頼朝の命で送られたことを確かめ、頼朝追討の宣旨を再び朝廷に求め、後白河法皇はその圧力に負け義経に宣旨を下した。10月24日頼朝は源氏一門や多くの御家人を集め、父義朝の菩提寺[[勝長寿院]]落成供養を行った。その日の夜、朝廷の頼朝追討宣旨に対抗し御家人達に即時上洛の命を出すが、その時鎌倉に集まっていた2098人の武士のうち、命に応じた者はわずか58人であった。頼朝は自らの出陣を決め、行家と義経を討つべく29日に鎌倉を発つと、11月1日に[[駿河国]][[黄瀬川]]に着陣した。一方の都の義経は頼朝追討の兵が集まらず、11月3日、郎党や行家と共に戦わずして京を落ちた。海路西国を目指す途上暴風雨に会い、船団は難破、一行は散り散りになり、義経は行方をくらませ、妾の[[静御前]]が吉野山で捕らえられている。なお義経を九州に迎えようと[[岡城 (豊後国)|岡城]]を築いていた豊後の[[緒方惟栄]]は上野国沼田に配流され、豊後は一時[[関東御分国]]となった。
 
=== 天下の草創 ===
11月8日、頼朝は都へ使者を送ると、黄瀬川を発って鎌倉へ戻る。11月上旬、義経・行家と入れ替わるように京都に上った東国武士の態度は強硬で、法皇の[[知行国]]の[[播磨国]]に向かい、法皇の代官を追い出して倉庫群を封印している。11日、朝廷は頼朝の怒りに狼狽し、する。義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下される<ref group="注釈">その頃鎌倉では駿河以西の御家人に書状を送り、今度の頼朝の上洛は取り止めたがなお怠りなく軍備を固めるように命じて、いざとなれば大挙出兵して上洛する場合に備えている。</ref>。12日、[[大江広元]]は処置を考える頼朝に対して全国への[[守護]]・[[地頭]]の設置を進言。これに賛同した頼朝は、周章する朝廷に対し強硬な態度を示して攻勢をかける<ref group="注釈">法皇は[[高階泰経]]を通じて鎌倉に弁明の使者を出し、す。使者は11月15日に到着したが恐怖にかられて営中に参ぜず、[[一条能保]]の屋敷に行って鎌倉殿あての書状を持参したことを告げた。能保にあてた一通には「義経等の事は、まったく泰経の仕組んだものではなく、ただ義経の兵力を恐れて院に奏上しただけである」と取り成しを願う内容であった。能保は使者を頼朝の所へ連れて行き、泰経の頼朝宛の書状を披露した。それには「行家・義経謀反のことは、天魔の所為というほかない。頼朝追討の宣旨を下さねば宮中で自殺するなどと言うので、当座の騒ぎを避けるための処置であり、法皇の本心ではなかった」という法皇の意向に従った弁明であった。11月26日、鎌倉の使者が泰経に返事の書状を持参して、院の御所の泰経を尋ねると、不在という答えだったので大いに怒り、文箱を院の中門の廊に投げ込んで立ち去った。その書状は兼実に届けられ、表に「大蔵卿殿御返事」とあり、下の署名はなく、内容は「行家・義経謀反のことは、天魔の所為とおっしゃるが、とんでもない事だ。天魔とは仏法の妨げをなし、人倫の災いとなる者の事。頼朝は多くの朝敵を滅ぼすと、政権を法皇にお任せしたのに、たちまち謀反人とされてしまったのはどういうわけか。法皇のお考えと無関係に、そもそも院宣が下されるものなのか。行家といい、義経といい、召し捕られぬところから、国々も疲弊し、人民も難儀をする。日本国第一の大天狗はさらに他に居申さぬぞ」と後白河法皇の変心と無責任ぶりを痛罵したものだった。</ref>。
 
24日に[[北条時政]]は頼朝の代官として1000騎の兵を率いて入京した。頼朝の忿怒を院に告げ鎌倉側の要求を提出すると、法皇との交渉に入った<ref group="注釈">狼狽する法皇と泰経は25日に行家と義経の探索を命じる宣旨を重ねて出し、す。「行家・義経が逆風の難にあったのは天罰である」と義経を罵り、泰経に謹慎を命じる。</ref>。28日に時政は[[吉田経房]]を通じ義経らの追捕のためとして「守護・地頭の全国への設置」を迫り、これを認めさせる事に成功する([[文治の勅許]])。これによって鎌倉の権力の全国的政権への確定が行われる事になる。12月には「天下の草創」と強調して、院近臣の解官、議奏公卿による朝政の運営、兼実への内覧宣下といった3ヵ条の廟堂改革要求を突きつける(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』12月27日条)。議奏公卿は必ずしも親鎌倉派という陣容ではなく、院近臣も後に法皇の宥免要請により復権したため、頼朝の意図が貫徹したとは言い難いが、兼実を内覧に据えることで院の恣意的な行動を抑制する効果はあった。
 
[[文治]]2年([[1186年]])3月には頼朝追討の宣旨を下した責任者として法皇の寵愛深い[[摂政]]の[[藤原基通]]を辞任させ、代わって兼実を摂政に任命させる。4月頃から義経が京都周辺に出没している風聞が飛び交い、頼朝は貴族・院が陰で操っている事を察して憤りながらも、東北へも意識を向け[[奥州]]の[[藤原秀衡]]に「秀衡は[[奥六郡]]の主、自分は東海道の惣官である。水魚の交わりをなすべきである。都に送る馬や金は鎌倉で管領して伝送しよう」という書状を送り、探りを入れている。
 
同年5月12日には[[和泉国]]に潜んでいた[[源行家|行家]]を討ち取る。頼朝は捜査の実行によって義経を匿う寺院勢力に威圧を加え、彼らの行動を制限した。その間に発見された義経の腹心の郎党たちを逮捕・殺害すると、院近臣と義経が通じている確証を上げる。11月、「義経を逮捕できない原因は朝廷にある。義経を匿ったり義経に同意しているものがいる」と頼朝は朝廷に強硬な申し入れを行なった。朝廷は重ねて義経追捕の院宣を出すと、各寺院で逮捕のための祈祷を大規模に行う事になった。京都に見捨てられた義経は、奥州に逃れ[[藤原秀衡]]の庇護を受ける事となった。
 
頼朝は、諸国から争いの訴えなどを多く受ける様になり、また[[平重衡]]に焼かれた[[東大寺]]の再建なども手がける。なお、頼朝は義経を庇護する寺社勢力の力を削ぐため、あえて捕縛せずに潜伏地を遅れて追跡したのだ、とする説もある。
122行目:
7月19日、ついに勅許を待たず、およそ1,000騎を率いて鎌倉を発して泰衡追討に向かい、[[奥州合戦]]が始まる。25日には[[宇都宮市|宇都宮]]に到着、[[宇都宮二荒山神社|宇都宮大明神]]に戦勝を祈願するとともに[[佐竹秀義]]らを軍に加えた。
[[ファイル:Yoritomo map4.png|left|陸奥(東北地方太平洋側)の地図]]
8月7日から10日にかけて行なわれた[[阿津賀志山の戦い]]において[[藤原国衡]]を討ち取り、頼朝はさらに進撃し、泰衡を追って北上する。22日、[[平泉]]の泰衡の館に着くが、泰衡は館を焼き逃亡していた。頼朝は朝廷に戦況を報ずる使者を発し放ち、泰衡の捜索を行う。26日、泰衡は書状を頼朝に届け、状中で助命を乞い返報を比内郡に捨て置く様に望む。書状を受けた頼朝は比内郡での泰衡捜索を命じ、9月2日には岩井郡[[盛岡市|厨河]]へと陣を移す。厨河はかつて[[前九年の役]]で[[源頼義]]が[[安倍貞任]]らを討った地であり、頼朝はその佳例に倣い、厨河での泰衡討伐を望んだのである。3日、泰衡はその郎従である[[河田次郎]]の裏切りにより討たれた。6日、河田次郎が泰衡の首を持ち、[[紫波町|陣岡]]に戻っていた頼朝の下へ参じる。頼朝は実検を行うと、河田次郎を主人を討った不義による斬罪を命じ、泰衡の首はかつて[[源頼義]]が[[安倍貞任]]の首を釘で打ち付けさせた例に倣わせた。
 
9日、奥州を征した頼朝に泰衡征伐の宣旨がようやく届いた。
 
厨河に戻った頼朝は、[[奥州藤原氏]]の建立した[[中尊寺]]、[[毛越寺]]、宇治[[平等院]]を模した[[無量光院跡|無量光院]]などの寺領の安堵を命じる。平泉へ戻ると諸寺を参拝し、感銘を受けた頼朝は鎌倉に戻った後に中尊寺境内の大長寿院に模した[[永福寺跡|永福寺]]を建立している。24日、[[葛西清重]]に平泉の治安維持を命じると共に、[[伊達郡]]、[[磐井郡]]、[[牡鹿郡]]などを与える。27日、かつて[[安倍頼時]]の住んだ[[衣川]]の旧跡を訪れ、28日に平泉を発ち、10月24日に鎌倉へ帰着した。
 
この奥州合戦には関東のみならず、全国各地の武士が動員された。また、かつて敵対して捕虜の身になっていたものに対しても、この合戦に従って戦功を上げて頼朝の下につくという挽回のチャンスも与えられていた。さらに、前九年の役の源頼義の先例を随時持ち出すことによって、坂東の武士達と頼朝との主従関係をさらに強固にする役割も果たした。
 
この奥州合戦の終了で治承4年から続いていた内乱も終結を迎えることになる。
 
=== 征夷大将軍 ===
[[文治]]5年([[1189年]])11月3日、朝廷より奥州征伐を称える書状が下り、頼朝は[[按察使]]への任官を打診され、さらに勲功の有った[[御家人]]の推挙を促されるが、頼朝はこれらを辞する。[[建久]]元年([[1190年]])10月3日、頼朝は遂に上洛すべく鎌倉を発し、つ。[[平治の乱]]で父が討たれた[[尾張国]]野間、父兄が留まった[[美濃国]][[大垣市|青墓]]などを経て、11月7日に千余騎の[[御家人]]を率いて入京し、する。かつて[[平清盛]]が住んだ[[六波羅]]の跡に建てた新邸に入った。
 
9日、[[後白河法皇]]に拝謁し、長時間余人を交えず会談した。ここで義経と行家の捜索・逮捕の目的で保持していた日本国総追補使・総地頭の地位を、より一般的な治安警察権の行使のために改め、永久的なものに切り替わった建久[[新制]]が発せられる。しかしところが、東国の支配者の象徴として頼朝が熱心に希望していた[[征夷大将軍]]に任官できず<ref group="注釈">頼朝が征夷大将軍を望んだものの後白河法皇に阻まれたとされる事情については『吾妻鏡』建久3年7月26日条の記述などから長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の寿永3年4月10日条及び『玉葉』寿永3年2月20日及び3月28日条から、源義仲滅亡時に後白河法皇から戦功として征夷将軍の任命の打診が行われて頼朝がこれを辞退したとする見解が出されており、頼朝の征夷大将軍補任の経緯及び当時の征夷大将軍と官職に実質的権限が存在したのか(征夷大将軍の権限とされるものは実際には頼朝個人に対して与えられた警察的・軍事的特権である可能性の指摘)について疑問視する説が出されている(北村拓「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」(所収:今江廣道 編『中世の史料と制度』(続群書類従完成会、2005年) ISBN 978-4-7971-0743-2 P137-194)。</ref>、代わりに[[大納言]]への任官を求められるが、頼朝は辞退し、[[後鳥羽天皇]]への拝謁を終えると六波羅に戻る。しかし六波羅に、「今に於いては異儀有るべからず」と記した[[権大納言]]任官の院宣が届き、再び辞退の書を返すが、容れられずに除目は行われた。さらに22日には武官の最高職である近衛大将への任官も打診され、頼朝はやはり辞退するが、24日に[[右近衛大将]]へと任ぜられた。12月3日、両官を辞し、す。11日に勲功の有った御家人を任官させる。頼朝が執拗に官職就任を辞退し、任命された権大納言・右近衛大将も直ちに辞任した背景としては、両官ともに京都の朝廷における[[公事]]の運営上重要な地位にあり、公事への参加義務を有する両官を辞任しない限り鎌倉に戻る事が困難になると判断したとみられている<ref>白根靖大「王朝社会秩序の中の武家の棟梁」(初出:『歴史』91号(東北大学東北史学会、1998年)、所収:白根『中世の王朝社会と院政』(吉川弘文館、2000年) ISBN 978-4-642-02787-8 P180-207)</ref>。
 
権大納言就任が決まった9日の夜、頼朝は[[九条兼実]]と面会して胸襟を開いて語りあい、次のように述べている。「今の世は法皇が思うままに政治をとり、天皇とても皇太子と変わりないありさま。さいわいあなたもまだ若くて先は長い。私にも運があれば、法皇御万歳(崩御)の後にはいつか必ず天下の政を正しくする日が来るでしょう」。そして、逆臣として討たれた父の汚名を雪ぐ意味で一旦は「朝大将軍」(国の大将軍)を受けた方が良いと判断した。14日に鎌倉へ戻るべく京を発し、29日に鎌倉へと戻った。
144行目:
[[建久]]4年([[1193年]])5月、[[御家人]]を集め[[駿河国]]で巻狩を行っている([[富士の巻狩り]])。16日、この巻狩において12歳の頼家が初めて鹿を射止めた。この後狩りは中止され、晩になって山神・矢口の祭りが執り行われた。また、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ったが、政子は武将の嫡子なら当たり前の事であると使者を追い返した。これについては、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが、政子にはそれが理解できなかったとする解釈もなされている。28日の夜に御家人の[[工藤祐経]]が[[曾我兄弟の仇討ち]]に遭い討たれる。宿場は一時混乱へと陥り、頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に伝わると、[[源範頼]]は嘆く[[北条政子]]に対し「範頼左て候へば御代は何事か候べきと」と慰めた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。8月2日、頼朝の元に謀反を否定する起請文が届くが、「源」の氏名を使った事に激怒した。8月10日、頼朝の寝床に潜んでいた範頼の間者が捕縛される。これにより範頼は伊豆へ流され、のちに誅殺された。建久5年([[1194年]])には甲斐源氏の[[安田義定]]を誅している。建久6年([[1195年]])3月、[[摂津国]]の[[住吉大社]]において幕府御家人を集めて大規模な[[流鏑馬]]を催す。建久8年([[1197年]])には、[[薩摩国|薩摩]]や[[大隅国|大隅]]などで[[大田文]]を作成させ、地方支配の強化を目指している。
 
[[建久]]6年(1195年)2月、頼朝は[[東大寺]]再建供養に出席するため、政子と[[源頼家|頼家]]・[[大姫 (源頼朝の娘)|大姫]]ら子女達を伴って再び上洛し、長女・大姫を[[後鳥羽天皇]]の妃にすべく朝廷に入内運動を始める。だが、盟友である九条兼実は既に娘・[[九条任子|任子]]を入内させており、反対されることを頼朝は危惧した。そこで京都では兼実ではなく、その政敵である[[土御門通親]]や[[高階栄子|丹後局]]と接触。大量の贈り物や莫大な荘園の安堵などを行ない、大姫入内のための朝廷工作を計った。建久7年(1196年)11月、兼実は後鳥羽天皇への通親の讒言により一族と共に失脚、頼朝はこれを黙認したとされる([[建久七年の政変]])。これにより、反幕府派の台頭を招くこととなった。建久8年(1197年)7月、入内計画は大姫の死により失敗に終わる。建久9年(1198年)正月、後鳥羽天皇は通親の養女が生んだ[[土御門天皇]]に譲位して上皇となり、通親は天皇の外戚として権勢を強めた。頼朝の反対は無視された。頼朝はさらに次女・[[三幡]]姫の入内を企て、女御の宣旨を受けるが、建久9年([[1198年]])12月27日、[[相模川]]で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。原因は[[落馬]]と言われるが定かではない。
 
建久10年([[1199年]])1月11日に出家し、13日に死去した。[[享年]]53(満51歳没)。
 
== 年表 ==
479行目:
『[[平治物語]]』は「年齢より大人びている」、『[[源平盛衰記]]』は「顔が大きく容貌は美しい」と記している。[[寿永]]2年(1183年)8月に鎌倉で頼朝と対面した[[中原泰定]]の言葉として『[[平家物語]]』に「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」とある。[[九条兼実]]の日記『[[玉葉]]』は「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」(10月9日条)と書いている。身長は[[大山祇神社]]に奉納された甲冑を元に推測すると165センチ前後はあったとされ、当時の平均よりは長身である。
 
[[肖像]]は知名度の割には少なく、しかも大半が[[近世]]になってからのものである<ref group="注釈">頼朝の肖像については、『[特別展]没後八〇〇年記念 源頼朝とゆかりの寺社の名宝』展図録([[神奈川県立歴史博物館]]編集・発行、1999年)に、不出品作も参考図を付、網羅的に掲載・解説がされている。</ref>。『吾妻鏡』には、[[宝治合戦]]の際に[[三浦泰村]]が北山の法華堂に立て篭もり、「絵像御影御前」で往時を談じたという記述があるが、この画像やこれを祖形とする作品は現存しない。[[京都]][[神護寺]]蔵の肖像画([[神護寺三像]])は、頼朝を描いたものとして伝わり、[[大和絵]]肖像画の傑作として[[国宝]]に指定されている。しかし平成7年([[1995年]])に[[米倉迪夫]]が、その画法や服装から[[足利直義]]を写した物とする学説を発表すると、像主について議論が続いている(→詳細は[[神護寺三像]]を参照のこと)。[[鶴岡八幡宮]]の白山明神に伝わっていた[[狩衣]]姿の木像は、[[江戸時代]]には頼朝像とされ、明治初期に流出し[[原富太郎|原三溪]]の手を経て、現在は[[東京国立博物館]]が蔵し[[重要文化財]]に指定されている([http://www.emuseum.jp/detail/100430/000/000?mode=simple&d_lang=ja&s_lang=ja&word=%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D&class=&title=&c_e=&region=&era=&century=&cptype=&owner=&pos=1&num=5 e国宝]に画像と解説あり)。[[甲斐善光寺]]蔵の木造源頼朝座像は、[[戦国時代 (日本)|戦国期]]に[[武田信玄]]によって[[信濃国|信濃]][[善光寺]]から移されたものであるが、胎内銘から[[文保]]3年([[1319年]])に彫られた最古の頼朝像であると考えられている。
 
歴史学者の[[黒田日出男]]は、源頼朝を表したとされる肖像を整理・検討、次のように結論づけている。東博蔵・伝源頼朝像は、[[建長寺]]にある[[北条時頼]]像([http://www.kenchoji.com/siraberu/tokiyori/tokiyori.html 建長寺公式サイトの画像と解説])と比較し、やや技巧が硬い部分があるが、面貌表現や大きさに到るまで瓜二つであり、また後に狩衣には本来ない[[平緒]]や[[石帯]]を取り付け、将軍の正装である[[束帯]]姿に改造された形跡があることから、本来は建長寺の像を元に北条時頼像として14世紀の鎌倉末期に作られたが、後に失われた源頼朝像の代わりとして束帯姿に改造された上で、白山明神に置かれたとしている。一方、甲斐善光寺の源頼朝像を、胎内の銘文を造像銘ではなく修理銘として読み解き、13世紀第1四半期に北条政子の発願で作られた史料上明らかな唯一の源頼朝像であり、二度の火災で頭部だけが当時の姿で残り、体は鎌倉末期の修理の際に補作されたという論考を発表している<ref>黒田日出男 『源頼朝の真像』 [[角川学芸出版]]、2011年、ISBN 978-4-04-703490-7。</ref>。
 
=== 逸話 ===
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頼朝の開いた政権は制度化され、次第に朝廷から政治の実権を奪い、後に[[幕府]]と名付けられ、王政復古まで足掛け約680年間に渡り長く続くこととなる。武家政権の創始者として頼朝の業績は高く評価されており、ほとんどの[[日本人]]は[[義務教育]]で頼朝の名を学んでいる。
 
その一方で、人格は「冷酷な政治家」と評される場合が多い。それは、多くの同族兄弟を殺し、自ら兵を率いることが少なく(頼朝自身は武芸は長けていたといわれるが、戦闘指揮官としては格別の実績を示していない)、主に政治的交渉で[[鎌倉幕府]]の樹立を成し遂げたことによる。判官贔屓で高い人気を持つ末弟・[[源義経|義経]]を死に至らせたことなどから、頼朝の人気はその業績にもかかわらずそれほど高くなく、小説などに主人公として描かれることも稀である。鎌倉時代を得意とする作家の[[永井路子]]は、頼朝は勃興する東国武家勢力のシンボルであるとし、その業績をすべて彼個人に帰するような過大評価を戒めているが、一方でその政治的能力、人材掌握力は高く評価され、日本史における組織作りの天才であり、その手腕は後世に彼を手本とした[[徳川家康]]よりいっそう巧緻であると評している(「源頼朝の世界」)。
 
以上は概ね現代における評価であるが、頼朝は過去にも多くの人物により評されてきた。
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: 頼朝の事績を多く記した[[吾妻鏡]]を集めて写させた。源氏の[[新田氏]]流を自称していた家康は頼朝を崇拝しており、吾妻鏡を読み頼朝の行動を学んだといわれる。
; [[新井白石]]
: [[読史余論]]の中で、政治面での功績には一定の評価を与えつつも、頼朝の行動は[[朝廷]]を軽んじ己を利するものであると、総じて否定的な評価をしている。挙兵から四年間も上洛せず、東国の土地を[[押領]]し家人に割け与えたのは、既に独立の志を持っていたとする。[[源義仲]]を討った理由は、義仲が朝奨に預かったことを憎んだからであり、また義仲が[[後白河法皇]]を幽閉した罪を問わなかったことを責めている。[[源義経]]との対立に関しては、朝臣に列していた義経を京で襲ったことは、臣たる者の仕業では無いと、襲った理由は、義経が朝賞に預かったと共に、義経の用兵を恐れたからだとする。義経が驕りに加え[[梶原景時]]の讒言により誅されたとの論には、驕りも讒言も無く誅された[[源範頼]]の例を挙げて反論し、「頼朝がごとき者の弟たる事は、最も難しいと言うべき」と記して評を終えている。
 
この他に「成敗分明(『[[玉葉]]』[[九条兼実]])」、「ぬけたる器量の人(『[[愚管抄]]』[[慈円]])」、「頼朝勲功まことにためしなかりければ(『[[神皇正統記]]』[[北畠親房]])」、等がある。総じて政治的能力への評価は高いが、論評者が勤王家かどうか、儒教の倫理観に近いか等の見方によって全体の評価が上下する傾向があるほか、時代によっても評価が揺らぐのも特徴と言える。[[宮澤賢治]]のように当時、奥州藤原氏らによって平泉を中心として栄えた「奥州文化」の破壊者として批判的に見る学者・研究者もいる。
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末弟・[[源義経]]を逐うに至った経緯は、古くから多くの人々の興味を呼び、物語が作られ、研究が成されている。
 
[[吾妻鏡]]では、まず養和元年7月に頼朝が義経に対して鶴岡八幡宮の大工への褒美である馬を授ける引馬役を命じたところ、義経が不満を示したために頼朝が激怒したという(養和元年七月二十日条)。続いて元暦元年8月6日、京に在った義経は頼朝の内挙を得ずに任官し、憤った頼朝は義経を平家追討軍から除いたことになっている(元暦元年八月十七日条)。しかし、この記述は同じ吾妻鏡の他の記事と齟齬を見せているとの説もある。8月3日、頼朝は義経に[[伊勢国|伊勢]]の[[平信兼]]追討を命じ(八月三日条)、義経は12日に出発している。つまり任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。また、26日、義経は平家追討使の官符を賜っている(文治五年閏四月三十日条)。頼朝は義経に対して何の処罰も下していないのであると言う。一方で、頼朝が義経の無断任官を知ったのは8月17日であるから、それ以前に何らかの命を義経に下しているのは当然であり、平家追討使の官符を賜っているのも、朝廷は頼朝に諮らず義経を検非違使に任じたのであるから、頼朝に諮らず平家追討の官符を下しても、不思議は無いとも考えられる。
 
義経を恐れたとの説もある。戦いに敗れる事も多かった頼朝に対し、義経は平家追討で連戦連勝を遂げたので、頼朝は義経の軍才を恐れるに至ったとする。義経が[[藤原泰衡]]に討たれた直後に、[[奥州合戦]]を始めた事は、この説を裏付けるものとして用いられる。
 
平家滅亡後の鎌倉政権は、きわめて重大な時期に来ていた。内乱が収まると平家追討を名目にした軍事的支配権の行使が出来なくなる。頼朝はそれまで軍事力を持って獲得してきたものを、朝廷との政治交渉によって、平時の状態でも確保出来、補強しなければならない困難な状況に直面していた。そうした時期であるために、いかに肉親であり功績のある者でも、自分に反抗する者は許しておくことは出来ない。義経の背後には、武家政権確立のための対抗勢力である朝廷や奥州藤原氏があったのである。<!--参考文献:安田元久著『源義経』-->
 
都落ちした義経を匿った事で鎌倉へ召還された[[興福寺]]の僧・[[聖弘]]は、義経を庇護した事を詰問する頼朝に対し、「今関東が安泰であるのは義経の武功によるものである。讒言を聞き入れ恩賞の土地を取り上げれば、人として逆心を起こすのも当然ではないか。義経を呼び戻し、兄弟で水魚の交わりをされよ。自分は義経のみを庇って言うのではなく、天下の無事を願っての事である。」と悪びれず直言した。頼朝はその言葉に感じ入り、聖弘を勝長寿院の供僧職に任じた事から、義経を憎みきっていた訳ではない事が伺える。頼朝は政治家であり、義経は軍人であった。その相違が、平家滅亡後に露呈する事になったのである。<!--参考文献:渡辺保著『源義経』-->
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; 落馬説
: 建久9年(1198年)重臣の[[稲毛三郎重成]]が亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した帰りの道中に落馬したということが吾妻鏡に記された死因であり、最も良く知られた説である。しかしその死因が吾妻鏡に登場するのは、頼朝の死から13年も後の事であり、死去した当時の吾妻鏡には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載が全く無い。これについては、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、[[徳川家康]]が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったともいうが、吾妻鏡には徳川家以外に伝来する諸本もあり、事実ではない。
: なお、死因と落馬の因果関係によって解釈は異なる。落馬は結果であるなら[[脳卒中]]など[[脳血管障害]]が事故の前に起きており、落馬自体が原因なら頭部外傷性の[[脳内出血]]を引き起こしたと考えられる<ref name="brain">小長谷、2004年、P.74</ref>。落馬から死去まで17日ある事から、脳卒中後の[[誤嚥性肺炎|誤嚥性]]・[[沈下性肺炎]]の可能性がある。
; 尿崩症説
: 落馬して脳の[[中枢神経]]を損傷し、[[バソプレッシン|抗利尿ホルモン]]の分泌に異常を来たして[[尿崩症]]を起こしたという説。この病気では尿の量が急増して水を大量に摂取する(=「飲水の病」)ようになり、血中の[[ナトリウム]]濃度が低下するため、適切な治療法がない[[12世紀]]では死に至る可能性が高い<ref name="brain"/>。
; 糖尿病説
: 猪隈関白記の「飲水の病」とは水を欲しがる病であり[[糖尿病]]を指すとするが、そのような症状があったという記録はなく、可能性は低い<ref name="brain"/>。