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|anniversaries= 12月30日(陸軍記念日)
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'''ベトナム共和国陸軍'''(ベトナム語:Quân Lực Việt Nam Cộng Hòa - QLVNCH, 英語:Army of the Republic of Viet Nam - ARVN)とは、[[1955年]]から[[1975年]]まで存在した[[ベトナム共和国]]の[[陸軍]]である<ref>[http://mcel.pacificu.edu/as/students/arvn/arvn.html History of the Army of the Republic of Vietnam]</ref>。しばしば単に'''南ベトナム陸軍'''(South Vietnamese Army, SVA)と呼ばれるほか、場合もある。英語略称の'''ARVN'''の語も広く使われている。[[ベトナム戦争]]では1394000人もの死傷者を出したといわれている<ref name="Casualties - US vs NVA/VC">[http://www.rjsmith.com/kia_tbl.html Casualties – US vs NVA/VC]</ref>。
 
[[サイゴン陥落]]後、共和国軍は[[ベトナム人民軍]](北ベトナム軍)によって解体された。この際、一部の高級将校らは[[アメリカ合衆国]]などへの亡命に成功したが、数千人とも言われる共和国軍将兵は統一された[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]において再教育施設に送られた。
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[[1949年]][[3月8日]]、[[エリーゼ合意]]の下、[[バオ・ダイ]]皇帝を元首とする[[ベトナム国]]の独立が認められ、まもなくして'''[[ベトナム国民軍]]'''(ベトナム語:Quân đội Quốc gia Việt Nam, 英語:Vietnamese National Army - VNA)の編成が行われた。
 
国民軍はフランス極東遠征軍と共同し、[[ホー・チ・ミン]]率いる[[ベトミン]]共産軍を相手として戦った。[[ナサンの戦い]]、[[アトラス作戦]]、[[ディエンビエンフーの戦い]]など、国民軍は[[第一次インドシナ戦争]]の主要な戦線のほとんどで戦った<ref>[http://www.ecpad.fr/ecpa/PagesDyn/result.asp?dossierID=488&photo=1&collectionid=4 Vietnamese National Army gallery (May 1951 – June 1954)]{{dead link|date=February 2012}} French Defense Ministry archives ECPAD</ref>。
 
[[1950年代]]初頭にかけて、国民軍はフランス遠征軍をモデルとした近代的軍組織に再編成された。[[兵科]]は歩兵、砲兵、輜重、装甲騎兵、空挺、航空隊、[[ベトナム共和国海軍|海軍]]などに細分化され、将校の教育施設として国民軍大学校が設置された。[[1953年]]には将兵全てがベトナム人となる。元植民地空軍士官の{{仮リンク|グエン・バン・ミン|en|Nguyen Van Hinh}}参謀長など、将校には[[ダラット]]のフランス軍士官学校(Ecoles des Cadres)を修了したものも多かった。
 
[[1954年]]に[[ジュネーヴ協定]]が締結されると、[[フランス領インドシナ]]は消滅したものとされ、1956年までに全フランス軍が[[ベトナム]]、[[ラオス]]、[[カンボジア]]から撤退した。[[1955年]]には[[ゴ・ディン・ジエム]]首相の命により、国民軍が[[ビン・スエン派]]民兵の殲滅を試みている<ref>*{{Cite book|author=Pierre Darcourt|title=Bay Vien, le maitre de Cholon|language=French|trans_title=Bay Vien, Cholon's Master|publisher=Hachette|year=1977|isbn=978-2-01-003449-7}}</ref><ref>*{{Cite book|author=Alfred W. McCoy|title=The Politics of Heroin|publisher=Lawrence Hill Books|year=2003|isbn=1-55652-483-8}}</ref>。
 
===ベトナム共和国陸軍 1955年~1975年===
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[[1969年]]、[[リチャード・ニクソン]]大統領は「[[ベトナミゼーション|ベトナム化]]」プロセスの開始を宣言した。これはアメリカ軍の撤兵と共に、ベトナム戦争をベトナム人勢力(人民軍、ベトコン、共和国軍)のみで行わせる事を目的としていた。以降、共和国軍が担う主要な任務は対ゲリラ作戦から本格的な国防へと徐々に移行していった。
 
[[1969年]]から[[1971年]]にかけて、共和国陸軍は年間平均で22000人の戦死者を出した。[[1968年]]以降、ベトナム共和国では国内の動員可能な男性を全て召集し、[[1972年]]までに100万人の兵力を組織した。[[1970年]]にはアメリカと共同して[[カンボジア]]への侵攻も試みている。アメリカ軍は撤兵直前まで共和国陸軍の装備類を更新しようと試みていたが、結局その水準は[[大韓民国国軍|韓国軍]]にも劣る程度に留まっていた。そして、最大の問題は将校の質である。共和国陸軍の多くの将校は指揮能力や勇敢さに欠け、訓練も不十分であり、ほとんど使い物にならなかったとされる。しかしアメリカ軍の航空支援の下ではあったとはいえ、アメリカ軍地上戦力が撤退した後も共和国軍は北ベトナム及びベトコンに対して頑強な抗戦を続けた。
 
1972年、[[ヴォー・グエン・ザップ]]将軍による「[[イースター攻勢]]」が発動され、人民軍が[[軍事境界線 (ベトナム)|軍事境界線]]を突破してベトナム共和国へ侵攻した。この攻勢は歩兵の波状攻撃と援護砲撃に加え、人民軍としてははじめて大規模な機甲戦力を組み合わせた作戦であった。[[T-54]]戦車の多くは[[M72 LAW|LAWロケット]]で撃破されたものの、引き換えに共和国陸軍は多大な損害を被った。その後、人民軍とベトコンは[[クアンチ省]]を占領し、する。[[ラオス]]および[[カンボジア]]の国境に沿って侵攻を続けた。
 
[[Image:M41-walker-bulldog-tank.jpg|300px|thumb|共和国陸軍は[[M41軽戦車]]でT-54と戦った]]
 
ベトナム共和国の崩壊が始まる頃、リチャード・ニクソン大統領は[[ラインバッカー作戦]]の元で大規模な爆撃を決定した。また同時期、[[グエン・バン・チュー]]大統領は[[フエ]]の防衛と[[脱走兵]]の処刑を担当していた[[ホアン・スアン・ラム]]将軍を解任すると、後任には[[ゴ・グアン・チュオン]]将軍を充てた。最終的に、アメリカ軍の航空および艦砲支援を受けながらではあったが、共和国陸軍将兵の奮闘によってイースター攻勢は足止めされた。さらに共和国陸軍はベトナム共和国領土を占領していた人民軍の一部を撃退したものの、クアンチ省の奪還には至らなかった。
 
1972年末に行われた[[ラインバッカーII作戦]]の失敗を経て、アメリカとハノイ政府の交渉が実現する。[[1974年]]、アメリカ軍は完全にベトナムから撤兵した。これ以降、共和国軍は孤軍奮闘を強いられる事になるが、アメリカなど各同盟国軍が現地遺棄した装備等を使用することは可能だった。
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しかしこうした数字は欺瞞に過ぎず、アメリカは軍事援助の縮小にも着手した。またこの頃、一方の北ベトナムでもソ連や中国からの援助が縮小され、彼らは[[T-34]]戦車や[[SU-100 (自走砲)|SU-100]]自走砲など旧式兵器以外の援助を受けられなくなった。
 
[[1974年]]秋、[[ウォーターゲート事件]]の影響を受けてニクソンは辞任した後、[[ジェラルド・フォード]]が新たな大統領となった。当時は既にベトナム戦争は非難の対象となっており、深刻な景気後退や取付財政赤字も相まって、議会は10億ドルから700ドルと言われる次年度の対ベトナム共和国援助を打ち切った。1975年の[[サイゴン陥落]]には、ベトナム共和国政府および軍部の腐敗だけではなく、アメリカの援助打ち切りも少なからぬ影響を与えていると言われる。
 
資金難はベトナム共和国における軍民共の士気崩壊に直結し、共和国軍がベトコンや人民軍に勝利する事はいよいよ難しくなってきた。アメリカの支援打ち切りはベトナム共和国全土の占領を目論む北ベトナムにとっても絶好の機械となった。さらに新たなアメリカ政府は、ニクソンがチュー大統領の為に結んだ「(ハノイ政府が)[[パリ協定 (ベトナム和平)|パリ和平協定]]に反した攻撃を行った際、激しい報復を受けるであろう」という約束を自らが破る事を考えていなかった。これも北ベトナムに攻撃を決断させた一員だといわれている。
 
3月26日、ベトコンの攻勢によりフエが陥落すると、ベトナム共和国政府は完全に崩壊、共和国軍の統制も失われた。共和国陸軍の将兵は道路に溢れる避難民に紛れてベトナム共和国からの脱出を図った。人民軍は遺棄された共和国軍の兵器を接収して攻勢を強化していった。崩壊の中では必然的に多くの共和国陸軍将校らは保身の為に軍務を放棄し、より多くの下級将校や兵下士官が大攻勢の中に見捨てられていった。報道されたところによれば、チュー大統領はCIAの支援を受けて大量の現金と共に共和国を脱出したとされている<ref name=safer1991>"Flashbacks", Morley Safer, Random House / St Martins Press, 1991, p 322</ref>。
 
[[スアン・ロク]]に展開した第18師団やサイゴン周辺の攻防戦を除き、ベトナム共和国全土において共和国軍の抵抗はほとんど確認されていなかった。フエ陥落から数ヵ月後、サイゴンが陥落すると共にベトナム共和国は政治的実態として消滅した。共和国軍の敗北は世界中に衝撃を与えたが、北ベトナム当局ではむしろ共和国そのものの崩壊の速さに驚きを覚えたという。