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1388年([[王ウ (高麗王)|{{lang|ko|王禑}}]]14年)2月、[[元 (王朝)|元]]を倒して政権を確立した[[明]]は高麗に対し、元代の旧領を返還するように要求してきた。これに対し、親元派が主流であった政権は議論の末、崔瑩将軍を総司令官とする討伐軍の派遣を決定し、[[曹敏修]]と李成桂を左右都統使に任命した。この派兵に対して、李成桂は「四不可論」を掲げて反対を表明していた。 
 
『高麗史』によれば「四不可論」とは次のようである。「今者、師(軍のこと)を出すに、四つの不可あり。小を以て大に逆うは、一の不可なり。夏月に兵を発するは、二の不可なり。国を挙げて遠征せば、[[]]([[日本]])はその虚に乗ぜん、三の不可なり。時方に暑雨し、弓弩の膠は解け、大軍は疾疫せん、四の不可なり」
 
同年4月18日に西京(いまの[[平壌]])を発した軍は、5月7日に鴨緑江の中洲である威化島に到着したが、折からの[[梅雨]]の長雨で鴨緑江が増水して渡河できずに難渋していた。李成桂は[[曹敏修]]に撤兵をもちかけて賛同を得ると5月22日に回軍を決定した。反乱軍を率いた李成桂は6月1日には[[開京]](いまの[[開城]])近郊に帰還して布陣。2日後に王城に侵攻し、[[崔瑩]]を捕捉して配流後に処刑。また[[王ウ (高麗王)|{{lang|ko|王禑}}]]を廃して[[江華島]]に追放後に賜死した。後継者には[[曹敏修]]の意見を入れて、[[王昌]]が即位した。