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[[File:Onshi-015.JPG|right|thumb|恩賜のたばこ]]
'''恩賜の煙草'''(おんしのたばこ)は、[[天皇]]から下賜された[[紙巻きタバコ]]である。'''恩賜煙草'''ともいう。{{Jdate|[[2006}}年]]([[平成]]18年)末で廃止。最終製造者は[[日本たばこ産業]] (JT) で、[[宮内庁]]にのみ納めていた。
 
== 概要 ==
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明治時代からの慣習として[[菊の紋章]]が入った「恩賜のたばこ」があるが、起源は不確かである<ref name="sumotoKYODO67">{{Cite news |title= 恩賜タバコを廃止へ&ensp;和菓子で代替、宮内庁|author= 共同通信ニュース速報|date= 2005-06-07|work= [http://homepage2.nifty.com/nosmoke/news/2005news.html タバコ関連ニュース2005]|publisher= [[洲本市禁煙支援センター]]|accessdate=2012-06-18}}</ref>。古くは、[[1877年]]([[明治]]10年)の[[西南戦争]]時に[[昭憲皇太后|皇后]]らから傷病兵士に贈られたと『[[明治天皇|明治天皇紀]]』に記されている<ref name="sumotoMAINICHI67">{{Cite news |title= <恩賜タバコ>来年度までに廃止へ&ensp;禁煙の高まりを考慮|author= 毎日新聞ニュース速報|date= 2005-06-07|work= [http://homepage2.nifty.com/nosmoke/news/2005news.html タバコ関連ニュース2005]|publisher= 洲本市禁煙支援センター|accessdate=2012-06-18}}</ref>。
 
煙草が[[専売制]]となる以前の{{Jdate|[[1894}}年]]([[明治]]27年)に行われた[[日清戦争]]では、[[岩谷松平|岩谷商会]]が製造委託を受けた<ref>{{Cite web |url= http://www.jti.co.jp/Culture/museum/exhibition/2005/0501jan/02.html|title= 弐、天狗の岩谷|work= 明治のたばこ王&ensp;岩谷松平|publisher= [[たばこと塩の博物館]]|accessdate=2012-06-18}}</ref><ref>「JACAR ([[アジア歴史資料センター]]) Ref.C06060833600、明治27年8月〜10月 「着電綴(四)」 ([[防衛省防衛研究所]]) 」(岩谷松平発 川上参謀次長宛 恩賜煙草製造の件)</ref><ref> 「JACAR (アジア歴史資料センター) Ref.C06060996200、明治28年2月〜3月 「着電綴(八)」 (防衛省防衛研究所) 」(28,3,1 恩賜の煙草御用願上け候)</ref>。
 
制度上は{{Jdate|[[1933}}年]]([[昭和]]8年)に開始し、戦時には[[日本軍|軍]]への支給品でもあった<ref name="sumotoNHK68">{{Cite news |title= 宮内庁&ensp;「恩賜のタバコ」&ensp;支給取りやめへ|author= NHKニュース速報|date= 2005-06-08|work= [http://homepage2.nifty.com/nosmoke/news/2005news.html タバコ関連ニュース2005]|publisher= 洲本市禁煙支援センター|accessdate=2012-06-18}}</ref>。恩賜のたばこは[[軍歌]]にも登場し<ref name="sumotoASAHI62">{{Cite news |title= 恩賜のタバコ、支給やめます&ensp;喫煙率低下で、お菓子に|author= 朝日新聞ニュース速報|date= 2005-06-02|work= [http://homepage2.nifty.com/nosmoke/news/2005news.html タバコ関連ニュース2005]|publisher= 洲本市禁煙支援センター|accessdate=2012-06-18}}</ref>、[[大日本帝国]][[陸軍省]]撰定の軍歌『[[空の勇士]]』は、{{Jdate|[[1939}}年]]([[昭和]]14年)[[ノモンハン事件]]の[[陸軍飛行戦隊]]を主題に恩賜のたばこを歌っている。
 
箱には黒で「賜」の文字が入っており<ref>昭和初期、戦争が激しくなるまでは金箔で「恩賜」の文字だった。戦争が激しくなり、製造数が増え、かつ物資不足になって黒字で「賜」一文字になった-出典 日本専売公社東京工場・工場史編集委員会 編著『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.181,184</ref>、たばこ1本ずつに[[皇室]]を表す[[菊花紋章]](十六八重表菊)が入っている。パッケージングの際には、全部の菊紋が上を向く様に人手できちんと揃えられる。成分的には普通のたばこと何ら変わらないが、たばこ葉は純国産品である。拝領し吸った事のある人によると「非常な辛口」「きつい」とのこと<ref>[http://ameblo.jp/taiwan-tokusan/entry-10001867996.html 恩賜(おんし)の煙草を頂戴して…](ブログ「台湾生活…アジアの平和を願って」)</ref><ref>[[松崎敏彌]]「天皇の基礎知識」『歴史人』No.3、KKベストセラーズ、2010年12月。</ref>。
 
市販はされず、[[叙勲]]者や園遊会の出席者<ref>松本成子「恩賜のたばこはいらない」『婦人新報』1993年4月号、p.22</ref>、皇室の来賓、宮内庁奉仕団、皇室関連ボランティア活動、[[警視庁警備部]]警衛課([[セキュリティポリス]])や各道府県[[警察本部]][[警備課]]などへのおみやげや謝礼品として使用される。{{Jdate|[[1959}}年]]([[昭和]]34年)[[6月25日]]、[[天覧試合#プロ野球|天覧試合]]として[[後楽園球場]]([[東京都]][[文京区]])で開催された[[日本プロ野球|プロ野球]][[読売ジャイアンツ|東京讀賣巨人軍]] - [[阪神タイガース|大阪タイガース]]第11回戦の出場選手などにも贈られている。
 
近年まで皇室の恩賜及び宮内庁の贈品目として存在していたが、[[健康増進法]]の制定など、健康にとって有害なものを嫌う風潮の高まりを受け、{{Jdate|[[2006}}年]]([[平成]]18年)末で廃止された<ref name="『たばこの事典』山愛書院、2009年、pp.724-725">財団法人たばこ総合研究センター 編『たばこの事典』山愛書院、2009年、pp.724-725</ref>。代替品は、菊花紋章入りボンボニエール([[ボンボン菓子]]容器)に[[金平糖]]を入れた「[[恩賜の金平糖]]」となる。
 
国会の議事録<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/038/0106/03804030106015a.html 第38回国会 参議院決算委員会議事録 第15号] 参議院会議録情報 第38回国会</ref>によれば、昭和30年代において引き渡し価格を[[朝日 (タバコ)|朝日]]({{Jdate|[[1976}}年]]([[昭和]]51年)生産終了)並みとしている。参考までに、昭和30年代のたばこの小売価格は朝日が20本30円で[[ゴールデンバット]]([[2010年]]末現在で200円)と同額、[[ピース (タバコ)|ピース]]10本入り({{Jdate|[[2010}}年]]([[平成]]22年)末現在で220円)が45円である<ref>[http://www.cabin3ch.com/smocolle02/jt01.htm 昭和30年代のタバコ屋さん](タバコ屋「橋本菓子店」)</ref>。
 
なお、皇室・宮内庁のタバコには天皇から下賜されるいわゆる恩賜のたばこ以外にも、宮内庁来賓接待用や[[宮家]]が用いる別製のたばこが存在する。これらは恩賜のもの(16弁の表菊)とは異なり、宮家の14弁の裏菊や宮内庁接待用の横向きの菊花紋章などが入れられている<ref>天皇家の紋は16花弁の表菊(菊花を正面から見た図)、皇族は14弁の裏菊〔菊の花を裏から見た図)、接待用には葉や茎を含めた菊全体を横から見た図のものが使われる。-出典 日本専売公社東京工場・工場史編集委員会 編著『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.174,186-189</ref>。
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== 皇室とたばこ ==
皇室とたばこの関係は{{Jdate|[[1883}}年]]([[明治]]16年)から{{Jdate|[[1904}}年]]([[明治]]37年)まで日本橋のたばこ製造業柳屋が、宮内省の命により刻みたばこ、{{Jdate|[[1894}}年]]([[明治]]27年)からは紙巻たばこをそれぞれ製造したことから始まる<ref name="『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.178-189。">日本専売公社東京工場・工場史編集委員会 編著『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.178-189</ref>。{{Jdate|[[1894}}年]]([[明治]]27年)には[[岩谷松平|岩谷商会]]に恩賜煙草製造の許可をあたえ、日清戦争で出征する兵士に下賜された<ref name="岩谷松平2回目">大下英治「岩谷松平2回目 恩賜煙草と如意が嶽の超大看板 時代を先取りしたのは村井の組織力」『エルネオス』2001年6月号、エルネオス出版社、pp.62-65</ref>。
 
{{Jdate|[[1904}}年]]([[明治]]37年)には専売局によるたばこの製造の官営化とともに皇室用たばこの製造も専売局に移り、岩谷商店の恩賜煙草製造ラインを引き継ぎ東京第一煙草製造所に移された。その同じ年に専売局は御料たばこを制定した。御料たばことは天皇・皇后・皇太后専用のたばこである。同じ皇室用に作られたが、皇族用及び下賜用および皇室・宮内省の接待用に作られたたばこは特製たばこと呼ばれた。下賜用のたばこも御料たばこと同じ作業順序・注意事項で作られた(材料葉は必ずしも同じではない)。御料たばこと特製たばこは{{Jdate|[[1910}}年]]([[明治]]43年)からは専用工場で作られるようになった。御料たばこの葉は専用葉、特製たばこは当時の専売局製最高級たばこ「不二」と同じ葉を使用した。
 
大正天皇はたばこが好きで、大正天皇専用たばこの種類も多く、各皇族家それぞれにも専用たばこが作られた。御料たばこおよび特製たばこ専用工場は淀橋工場に移された。昭和天皇はご自身ではたばこは吸われなかったが、大正天皇の供養用や宮内省接待用に皇室専用たばこは製造が続けられ(大正までは接待用と下賜用は明確には分かれていなかった。)、昭和に入ってからは下賜専用のたばこも製造されるようになった。いわゆる「恩賜のたばこ」専用規格品はここに始まる。
 
太平洋戦争後は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の命令で宮家専用の特製たばこの製造はなくなり、接待及び下賜用の特製たばこだけが作られることになる。下賜用(恩賜のたばこ)は特製たばこ1号とされ紙巻たばこには一本一本に16葉の花弁の表菊文様が入り、箱には黒字で「賜」の文字(初期には金箔で「恩賜」の文字)が入り、宮内庁接待用の特製たばこ2号には横菊(上の画像参照)が入り、箱は無地である。包装は箱と缶がある。{{Jdate|[[1968}}年]]([[昭和]]43年)以降には皇族用の14花弁の裏菊の紋が入った特製たばこ3号も存在する<ref name="『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.178-189。"/>。
 
== 恩賜のたばこの製造数 ==
大正までは宮内省接待用と下賜用たばこは明確にわけられていなく、昭和に入ってから新たに「恩賜」の文字が入った下賜用の別紙紙箱特製たばこの製造が始まった。当初の製造数は少なく{{Jdate|[[1933}}年]]([[昭和]]8年)までは年間100万本以下、9-11年は200万本、それ以降は1000万本台の数量で製造数が多くなり物資が不足するににつれ箱の文字は黒字で「賜」一文字になり、ピークの{{Jdate|[[1944}}年]]([[昭和]]19年)には2800万本強の特製たばこ(そのほとんどは「恩賜のたばこ」)が作られた。終戦の年の{{Jdate|[[1945}}年]]([[昭和]]20年)には106万本と激減している。そのほとんどは吸口付き紙巻たばこであるが、わずかに(1-3万本程度)両切り紙巻たばこも作られている。
 
太平洋戦争後も口付紙巻たばこは製造され年間100-200万本ほど、両切り紙巻たばこも{{Jdate|[[1964}}年]]([[昭和]]39年)までは年間10万本未満、{{Jdate|[[1965}}年]]([[昭和]]40年)から廃止される{{Jdate|[[1968}}年]]([[昭和]]43年)までは年間30万本程度作られた。{{Jdate|[[1968}}年]]([[昭和]]43年)からはフィルター付きたばこに変更され、年間300万本程度作られている<ref name="『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.178-189。"/>。
 
== 製造工場と生産体制 ==
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口付きたばこは初期には淀橋工場、後に東京工場(業平工場)、戦後の一時期は品川工場で作られており、フィルター付きたばこは東京工場、両切りたばこは芝工場と足立工場。葉巻は足立工場のちに東京工場で作られた。
 
初期の淀橋工場と昭和に入って以降の大部分を作った東京工場(業平工場)には、小さいながらも独立した特製たばこ専用工場が各工場内に置かれた。施設・設備も特製たばこ工場は専用の物で有り、人員も太平洋戦争中の増産期を除いて専任のスタッフが製造にあたった。{{Jdate|[[1973}}年]]([[昭和]]48年)にあらたに東京工場に置かれた特製たばこ専用工場は職員数6-7名前後の小さな工場だがベテランを配し、とくに箱入れ包装作業工程には機械が無くすべて手作業で行われている<ref name="『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.178-189。"/>。
 
{{Jdate|[[1945}}年]]([[昭和]]20年)までの特製たばこの製造には特に注意が払われた。関係者以外の工場への立ち入りは厳しく制限され、製造にあたる職員は、作業前に入浴、さらに消毒は徹底され、朝夕には工場医の健康診断も行われた。戦後には戦前のような作業前の入浴や毎日の健診などの特別な準備こそは行われなくなったものの、製造には細心の注意をもって行うことは続いた。前述の通り、包装工程には機械は使われず、すべて手作業で箱詰め、包装が行われている<ref name="『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.178-189。"/>。
 
== パッケージ ==
恩賜のたばこ(紙巻たばこ/特製たばこ1号)の包装単位は{{Jdate|[[1982}}年]]([[昭和]]57年)現在、箱入りで10本入り、20本入り、50本入り、100本入り、缶入りでは50本入りである。過去には5本入りのものもあった。紙巻きたばこそのものに入っている図柄は16枚の花弁の菊花(表菊)で、箱や缶には黒字で「賜」の一文字が記されている。尚、下賜用の、いわゆる「恩賜のたばこ」ではないが、宮内庁接待用の特製たばこ2号は横菊で箱・缶の包装は無地である。{{Jdate|[[1968}}年]]([[昭和]]43年)以降には皇族用の14花弁の裏菊の紋が入った特製たばこ3号も製品区分に入れられた<ref name="『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.178-189。"/>。
 
== 恩賜の葉巻 ==
下賜および接待用に用いられる宮内庁専用の特製たばこには通常の紙巻きタバコ以外にも、「御紋の飾環付き葉巻きたばこ」が存在していた。<ref name="『たばこの事典』山愛書院、2009年、pp.724-725">財団法人たばこ総合研究センター 編『たばこの事典』山愛書院、2009年、pp.724-725</ref>。
 
特製葉巻たばこ(菊花の御紋の飾環付き葉巻きたばこ)は{{Jdate|[[1939}}年]]([[昭和]]14年)に製造が始まり(大正天皇専用の御料葉巻たばこは{{Jdate|[[1917}}年]]([[大正]]6年)から製造されていた)、当初は微々たる量だったが、{{Jdate|[[1945}}年]]([[昭和]]20年)には最大の4000本/年製造された。{{Jdate|[[1939}}年]]([[昭和]]14年) - {{Jdate|[[1945}}年]]([[昭和]]20年)の平均製造量は年に1000本強であった。{{Jdate|[[1945}}年]]([[昭和]]20年)以降は{{Jdate|[[1982}}年]]([[昭和]]57年)の時点まででは1年間平均でおよそ2500本程度が作られている。菊花の御紋の飾環付き葉巻きたばこは小木箱に納められ、一つの小木箱には葉巻が25本入っている。使用しているたばこ葉は上巻がスマトラ葉、中巻とてん充葉はハバナ葉である<ref name="『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.178,181,184-185,187-189。">日本専売公社東京工場・工場史編集委員会 編著『たばこと共に七十余年』日本専売公社東京工場発行、1982年、pp.178,181,184-185,187-189</ref>。
 
ただし、宮内庁専用の特製たばことして専売局(後の日本専売公社/現日本たばこ株式会社)が製造したものではないが、{{Jdate|[[1939}}年]]([[昭和]]14年)以前、古くは明治期にも軍部の接待用として葉巻が下賜されている<ref>「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11080117100、庚分遣艦隊通報綴 海軍大臣官房記録 明治33年(防衛省防衛研究所)」(恩賜品受領の件)</ref>。
 
== 逸話 ==