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[[ファイル:Flavius Arrianus.jpg|thumb|right|アッリアノス]]
'''ルキウス・フラウィオス・アッリアノス・クセノフォン'''({{lang-grc-short|Ἀρριανός}}、{{lang-la-short|Lucius Flavius Arrianus Xenophon}})は、[[2世紀]]の[[古代ローマ|ローマ]]の[[ギリシア人]]の[[政治家]]、[[歴史家]]である。アリアノスまたはアリアヌス<ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B9/ アリアヌス - Yahoo!百科事典]</ref>とも表記する。[[アレクサンドロス3世]](大王)の東征研究の一級の[[史料]]『{{仮リンク|アレクサンドロス東征記|en|Anabasis Alexandri}}』({{lang-grc-short|Ἀλεξάνδρου ἀνάβασις}}/Alexandrou anabasis、直訳すれば『アレクサンドロスのアナバシス』)の著者として有名である。
 
== 生涯 ==
アッリアノスは[[ビテュニア]]の[[ニコメディア]]でローマ市民権をもって生まれ、[[エピルス]]の[[ニコポリス]]で哲学者[[エピクテトス]]に学んだび、後に死の教えの要約である『語録』を著した
 
[[アウィディウス・ニグリヌス]]の知己を得て[[ローマ帝国]]の官職・軍職に携わった。[[トラヤヌス]]の[[パルティア]]遠征に従軍したのではないかという説がある。次に[[ハドリアヌス]]が即位すると、ニグリヌスは皇位をうかがったかどで処刑されたが、アッリアノスは新帝に認められた。
 
[[125年]]頃にアッリアノスが[[ヒスパーニア・バエティカ]]で[[属州総督]]を務めた可能性を示す祭壇碑文が見つかっている。[[129年]]ないし[[130年]]に[[執政官]]となった。130年からおそらく[[137年]]まで、属州[[カッパドキア]]に総督として派遣された。カッパドキアで長年総督を務めるうちに、[[アラニ]]人の侵攻の情報をつかみ、これに軍を向けて断念させた。総督を辞した際あるいはそのしばらく後に、公職から引退した。
 
「執政官級の高官にして哲学者」との評判を保ちつつ、[[アテナイ]]市民権を取得し同市に居住した。没年は不明である。
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*『アレクサンドロス東征記』(全7巻、現存)
*『インド誌』(現存)
:大牟田章訳『アレクサンドロス大王東征記 付インド誌』上下東海大学出版会1996年(本文篇と註釈篇の二冊からなる)。岩波文庫から上下巻で解説と注釈と索引を簡約なものにしたものが2001年に出ている。
*『アレクサンドロス没後史』(巻数不明)
*『[[シュラクサイのディオン|ディオン]]』
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== 参考文献 ==
*大牟田章『アレクサンドロス大王東征記』、岩波文庫、2001年所収「解説」
 
== 脚注 ==
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[[Category:2世紀の古代ローマ人]]
[[Category:古代ローマの文筆家]]
[[Category:古代ローマの歴史家]]
 
[[bg:Ариан]]