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'''袁 尚'''(えん しょう、? - 建安12年[[9月 (旧暦)|9月]]([[207年]]))は、[[中国]][[後漢]]時代末期の武将。[[字]]は'''顕甫'''。[[豫州]][[汝南郡]][[汝陽県]]の人。後漢の[[大将軍]]・[[冀州]]牧、[[鄴]]侯[[袁紹]]の少子にあたる。母は劉氏で、兄は[[袁譚]][[袁煕]]。袁譚とは異母兄弟であろうと思われる。従兄弟に[[高幹]]。一族に[[袁買]]<ref>袁買は、弟という説と、兄の子という説がある。</ref>。
 
== 正史の事跡 ==
=== 後継強行と袁譚との決裂 ===
袁尚は生まれつき美貌で、武勇に優れていたため、父の袁紹、の劉氏の双方から寵愛されていた。袁紹は袁譚を差し置いて袁尚に後継させようと目論んでいたとされる。しかし[[建安 (漢)|建安]]7年([[202年]])に袁紹が病没した際には、最期まで後継者を明確に指定することはなかった。
 
後継者問題については、袁紹軍幕僚の[[郭図]]・[[辛評]]が長男の袁譚を後継者に推し、『[[後漢書]]』袁紹伝によれば、衆目も年長の袁譚支持だった、としている。しかし、やはり同幕僚の[[逢紀]]・[[審配]]は、郭図・辛評との個人的対立などもあり、袁紹の生前の寵愛を理由に袁尚を後継者として強硬に擁立した。上記袁紹伝によれば、審配らは袁紹の遺言を偽造したとしている。これにより袁尚が後継を宣言すると、母劉氏の意を受けて、袁紹の寵妾5人を族滅した。
 
一方、[[黎陽]]にあった袁譚は、袁尚に反発して[[車騎将軍]]を自称した。兄弟仲の隙を見越したように[[曹操]]が黎陽へ攻め込んでくると、袁譚は袁尚には袁譚から援軍要請をするがきた。しかし袁尚はこれを拒否したため、怒った袁譚袁尚派の逢紀を殺害してしまった。両者の仲はさらに険悪化し、決裂は時間の問題となった。袁尚は、[[并州]][[刺史]][[高幹]]河東[[太守]][[郭援]]・[[匈奴]][[単于]][[呼廚泉]]に曹操の背後となる関西を攻撃させたが、[[鍾ヨウ|鍾繇]]・[[馬超]]・[[ホウ徳|龐徳]]らの反撃を受けて郭援が戦死し、これも失敗に終わった。
 
建安8年([[203年]])春、袁尚と袁譚は曹操の攻撃に耐えかね、黎陽を放棄する。また曹操はいったん一旦[[許昌|許]]に帰還した。かし郭図・辛評の助言・後押しを受けた袁譚、鄴城外門へ先制攻撃を仕掛けて来たため、ついに袁氏兄弟の対立は決定的となった。反撃に転じた袁尚は、同年8月に袁譚を撃破し、[[平原郡|平原]]に追い詰めた。
 
これにより袁譚は、袁尚との対抗上から、曹操への一時降伏するを選んだ。同年10月に曹操軍が北上すると、袁尚は慌てて[[|{{lang|zh|鄴}}]]へ引き返した。しかし袁尚の部将[[呂曠]]・[[呂翔]]は、これに反して陽平に踏みとどまり、そのまま曹操・袁譚に寝返っているしまった
 
=== 敗走の果ての最期 ===
翌建安9年([[204年]])春、袁尚は袁譚を攻撃したが、曹操その隙を衝いて、審配守る{{lang|zh|鄴}}を包囲した。同年7月に袁尚は{{lang|zh|鄴}}救援に引き返してきたが、散々に撃破されてしまう。さらに曹操への降伏も拒否されたため、中山へ逃走した。袁尚に見捨てられた{{lang|zh|鄴}}も翌月に陥落し、審配は処刑され
 
袁尚は中山でも袁譚に撃破され、[[幽州]]刺史を務めていた次兄の袁煕を頼って、その管轄地の故安に落ち延びた。しかし、袁煕配下将[[焦触]]・[[張南]]に裏切られ、袁煕とともに[[烏桓]]の大人([[単于]])[[楼班]]を頼って、[[遼西]]走する。建安12年([[207年]])、遼西に進軍してきた曹操を、袁煕・袁尚は烏桓王[[トウ頓|{{lang|zh|蹋}}頓]](楼班の[[族兄]])らと柳城で迎撃した。しかし、またしても敗れ、最後は[[遼東]]の[[公孫康]]を頼って落ち
 
曹操を恐れた公孫康は、袁煕・袁尚を斬って曹操への手土産にしようと企み、2人を偽って歓迎した。これに袁煕疑いを抱いたが、むしろ袁尚は公孫康の軍を奪い取ろうと考えていた袁尚はため強がってそのまま公孫康の下に向かった。公孫康は、到着した袁煕袁尚を取り押さえ斬首し、2人の首級を曹操のもとに送り届けた。袁尚の亡骸が{{lang|zh|鄴}}に運ばれると、その亡骸はかつて袁尚が自陣営に招請しようとしたことがあった、[[田疇]]によって弔われた(詳しくは田疇の項参照)。
 
=== 人物像 ===
袁尚については、器量の乏しさをうかがわせる逸話がある。
 
まず、『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書[[崔エン|崔琰伝]]は以下の話を載せている。袁譚との後継争いの際に、[[騎都尉]]の双方が崔琰を双方が招聘したが、崔琰は病気と称していずれにも与さなかった。怒った袁尚は、崔琰を収監してしまった。袁尚配下の[[陰キ|陰夔]][[陳琳]]が取りしたおかげで、崔琰はなんとか赦免された。さらに、『三国志』魏書袁紹伝付・袁譚袁尚伝注に引く『典略』によれば、公孫康に処刑される直前に袁尚は寒がって筵を求めたが、兄の袁煕から「首級が万里の旅に出るのに、なぜ今さら筵がいるのか」とたしなめられた、としている<ref>『後漢書』袁紹伝によると、これは直後に二人を斬る公孫康の言葉である。</ref>。
 
袁尚は基本的に兄の譚に劣っていたとされるが、幹部級で見る限り、袁尚支持者は[[冀州]]出身者の審配・[[沮鵠]]([[沮授]]の子)、袁紹側近の逢紀、さらに幽州を治める袁煕と并州の高幹など、家族や幹部のほとんどである。すなわち、郭図・辛評(いずれも穎川出身、つまり河北出身ではない)を中心とする袁譚派に比べてかなり優勢であったことがうかがえる。正史の記述を優先するか、支持者の顔ぶれから判断するかは分かれるところであろう。
 
== 物語中の袁尚 ==
小説『[[三国志演義]]』でも、美貌で武勇に優れる若武者として登場している。倉亭の戦いで曹操の部将は、[[史渙]]を一騎打ちで討ち取る活躍を見せているが、これはフィクションである。その後はほぼ史実どおりの展開だが、兄の袁譚と口論、一騎打ちという脚色まで加わり、わがまま無能りがさらに強調されている。
 
== 注釈 ==