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[[ファイルimage:Robert Blake.jpg|thumb|ロバート・ブレイク]]
'''ロバート・ブレイク'''(Robert({{lang-en-short|Robert Blake}}, [[1599年]] - [[1657年]][[8月17日]])は、[[イギリス]][[サマセット州]]{{仮リンク|ブリッジウォーター|en|Bridgwater}}出身の[[軍人]]。[[英蘭戦争]]時において大きな役割を果たした一人として知られる。
 
[[オックスフォード大学]]{{仮リンク|ウォドム・カレッジ|en|Wadham College, Oxford}}で学んだ後、ブリッジウォーターに戻る。[[1640年]]、[[短期議会]]の議員に選出され、その後陸軍大佐として[[イングランド内戦]]や[[英蘭戦争]]で陸海における[[円頂党|議会派]]の指揮をとることとなる。第一次、第二次イングランド内戦では陸戦の指揮を執ったが、[[1649年]]に[[ジェネラル・アット・シー]](General at Sea)<ref>[[清教徒革命]]の際、議会派に積極的に加わった提督が殆ど居らず、イングランド共和国では海軍を指揮する人材が不足したため議会派の大佐クラスの陸軍軍人をジェネラル・アット・シーに任命し、艦隊の指揮をさせた。この制度は王政復古後も暫く続いた。</ref>に任命され、以降は艦隊司令官として[[イギリス海軍|イングランド艦隊]]を率いて[[騎士党|王党派]]の艦隊と戦いを繰り広げた。
 
[[1652年]]、かねてから険悪であった[[オランダ海軍]]の艦隊と遭遇。ブレイクは敬礼を要求したもののこれを拒否され、さらに片舷斉射を受けた。これにより海戦に発展し第一次英蘭戦争の戦端が開かれた。この戦いは{{仮リンク|ドーバーの海戦|en|Battle of Goodwin Sands}}と呼ばれる。その後もオランダ海軍と{{仮リンク|ケンティッシュ・ノックの海戦|en|Battle of the Kentish Knock}}及び{{仮リンク|ダンジュネスの海戦|en|Battle of Dungeness}}、{{仮リンク|リヴォルノの海戦|en|Battle of Leghorn}}、{{仮リンク|ポートランド沖海戦|en|Battle of Portland}}を戦った。ポートランド沖海戦で重傷を負い、その後の{{仮リンク|ガッバードの海戦|en|Battle of the Gabbard}}と{{仮リンク|スヘフェニンゲンの海戦|en|Battle of Scheveningen}}は[[ジョージ・ンク (初代アルベマール公)|ジョージ・ンク]]が艦隊の指揮を執った。常勝というわけではなかったが、海戦を通じて[[単縦陣]]を用いた艦隊戦術を編み出し大きな戦果を得た。
 
戦後は{{仮リンク|バルバリア海賊|en|Barbary corsairs}}掃討の任務などに就いた。[[プリマス]]沖で死亡し、[[ウェストミンスター寺院]]に葬られた。彼の功績を称えていくつかの軍艦にブレイクの名が与えられた。