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'''伝通院'''('''傳通院'''、でんづういん)は、[[東京都]][[文京区]]小石川三丁目の[[高台]]にある[[仏教]][[浄土宗]]の[[寺院|寺]]。正式名称'''無量山 傳通院 寿経寺'''(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)または'''小石川 伝通院'''ともいい、[[東京都]][[文京区]]小石川三丁目の[[高台]]にある[[仏教]][[浄土宗]]の[[寺院|寺]]。[[徳川将軍家]]の[[菩提寺]]。[[江戸三十三箇所|江戸三十三箇所観音札所]]の第十二番札所。「でんずういん」とも書かれる。
 
== 開山 ==
[[室町時代]]の[[応永]]22年([[1415年]])秋に、浄土宗第七祖の[[了誉聖冏]](りょうよ・しょうげい)[[上人]]が、[[江戸]]の小石川'''極楽水'''(現在の小石川4丁目)の草庵で開創し、[[山号]]を'''無量山'''、[[寺号]]を'''寿経寺'''とした(現在、この場所には[[徳川家康]]の側室[[茶阿の局]]の菩提寺'''吉水山[[宗慶寺]]'''がある)。開山は、弟子である[[酉誉]]上人(増上寺の開山上人)の切望によるものという。本尊は、[[平安時代]][[]]・[[源信 (僧侶)|源信]]([[恵心僧都]])作とされる[[阿弥陀如来]]像。
 
== 将軍家の菩提寺として ==
[[慶長]]7年([[1602年]])8月に[[徳川家康]]の生母'''・[[於大の方'''([[水野氏]][[京都]][[伏見城]]で亡くなると死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに[[江戸]]へ運び、大塚町の[[智香寺]](智光寺)で火葬した。位牌は[[安楽寺 (蒲郡市)|安楽寺]](愛知県蒲郡市)に置かれ、[[光岳寺]](千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長8年([[1603年]])に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して[[仏堂|堂宇]](堂の建物)を建て始め、彼女の法名「'''伝通院殿'''」にちなんで[[院号]]を'''伝通院'''とした。

家康は、当初は菩提寺である芝の[[増上寺]]に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師([[慈昌|源誉存応]])の言上を受けて、伝通院の建立を決めたという。慶長13年([[1608年]])9月15日に堂宇が竣工。観智国師門下の学僧[[正誉廓山]]上人(後に増上寺十三世)が、家康から住職に指名された。
 
[[画像:Odai.jpg|200px|thumb|於大の墓]]
 
=== 於大の墓 ===
寺は[[江戸幕府]]から[[寺領]]約600石を与えられて、多くの堂塔や学寮を有して威容を誇り、最高位[[紫衣]]を認められ、増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となった。増上寺・上野の[[寛永寺]]と並んで'''江戸の三霊山'''と称された。境内には[[徳川氏]]ゆかりの女性や子供(男児)が多く埋葬されており、将軍家の帰依が厚かったとされている。元和9年に830石に加増された。また慶長18年([[1613年]])には増上寺から学僧300人が移されて、[[関東十八檀林]]の上席に指定され、[[檀林]](仏教学問所)として多いときには1000人もの学僧が修行していたといわれている。[[正保]]4年([[1647年]])に三代将軍[[徳川家光|家光]]の次男亀松が葬られてからは、さらに幕府の加護を受けて伽藍などが増築されていった。[[享保]]6年([[1721年]])と享保10年([[1725年]])の2度も'''大火'''に遭っている。伝通院の威容は、[[江戸名所図会]]や[[文化 (元号)|文化]]9年([[1812年]])の』、『'''無量山境内大絵図''''''東都小石川絵図'''の[[安政]]4年([[1857年]])改訂版でも知ることができる。高台の風光明媚な地であったため、[[富士山]]・[[江戸湾]]・[[江戸川]]なども眺望できたという。
 
[[幕末]]の[[文久]]3年([[1863年]])2月4日、[[新撰組]]の前身となる[[浪士組]]が山内の[[塔頭]]'''処静院'''(しょじょういん)で結成され、[[山岡鉄舟]]・[[清河八郎]]を中心に[[近藤勇]]・[[土方歳三]]・[[沖田総司]]・[[芹沢鴨]]ら250人が集まった。当時の処静院住職'''[[琳瑞]]'''(りんずい)は尊皇憂国の僧だったため、浪士隊結成の場に堂宇を貸したと思われるが、後に佐幕派の武士により暗殺され、処静院は廃された。
また伝通院は、[[彰義隊]]結成のきっかけの場ともなったという。
 
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== 永井荷風の「伝通院」 ==
文豪[[永井荷風]]は、[[明治]]12年(1879([[1879]])に伝通院の近くで生まれ、明治26年(1893年)までここで育った。その思い出は、[[随筆]]『'''伝通院'''』(明治42年頃)を生み出し、'''パリに[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム]]があるように、小石川にも伝通院がある'''と賞賛した。また、荷風は明治41年([[1908年]])に外遊先より帰国して数年ぶりに伝通院を訪れたが、なぜかその晩に本堂が焼失してしまっ('''3(3度目の大火'''ため、同随筆の中で「なんという不思議な縁であろう。本堂は其の日の夜、追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中に、すっかり灰になってしまった」(永井荷風作『伝通院』より)。荷風は、'''パリに[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム]]があるように、小石川にも伝通院がある'''賞賛ている

[[夏目漱石]]も若い頃にこの近くに下宿していたため、小説『[[こゝろ]]』で伝通院に言及している。[[幸田露伴]]一家は[[大正]]13年([[1924年]])に伝通院の近くに転居して、現在も子孫が住んでいる。
 
* その他の「伝通院」を描いた文学作品