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[[File:Republic of China Flags.jpg|thumb|220px|「共和万歳」と書かれたイラスト。中央の人物は五色の中華民国国旗を掲げている]]
[[File:Flag of the Republic of China 1912-1928.svg|thumb|220px|1912年から1928年までの[[中華民国の国旗]]。五族を象徴する五色からなる]]
'''五族共和'''(ごぞくきょうわ)は、[[1912年]][[元旦]]に[[中華民国]]が成立した際に[[南政府]]での中華民国臨時大統領就任演説で[[孫文]]掲げ初め発表した過去に例を見な中華民族とその領土に対する華夷思想に代わる新な領土理念であり、中国国内の主な種族である[[漢民族|漢族]]、[[満州民族|満州族]]、[[モンゴル|蒙古族]]、回(現在の[[回族]]ではなく[[ウイグル人|ウイグル族]]など[[新疆ウイグル自治区|新疆]]のイスラム系諸民族を指す)および[[チベット民族|チベット族]]の五民4種とそ協調他の少数民族謳っ漢族に[[同化]]させる事を目的としスローガン。、漢族心の国北京族観と策で新共和国の建設に当たること象徴意味するスローガ。[[辛亥革命]]後に[[独立]]の動きを見せたチベット族、モとしてゴル族北京政府少数民族を牽制し引き止める目的で孫文ら革命指導者たちは中華民旗・五色旗と関連付け成立以前の[[清]]朝中国は満州族が権力を握り、他の4族はすべ考えら奴隷的地位に圧迫さてい。(ただ色のどの色平等民族立場るかは公式ち、同心協力して、国家の発展を策し、平和と大同を主張し、世界人類の幸福を中国人定められたこよって保証しようはなうスローガンを唱えた。
 
の政体は五族のそれぞれが別の国家とも言える政体を維持し、清朝皇帝はその五つの政体に別個の資格で君主として君臨するという一種の同君連合というのが実態であった。そのため、漢族社会に深く溶け込んでいた満州族を除く[[モンゴル]](蒙古族)、西域[[ムスリム]]社会(回)、[[チベット]]の実質三ヵ国は、漢族による中華民国政府の統治下に置かれることをよしとせず、清朝皇帝権の消滅をもって独立国家である主張するに至った。
五族共和は、[[1912年]][[元旦]]に[[中華民国]]が成立した際に[[孫文]]が[[南京]]で行った中華民国臨時大統領就任演説でも掲げられていたが、孫文自身は臨時大総統就任時と北方で演説した際にしか五族共和には言及しておらず、北京政府と対決後は五族共和は誤りであったと主張し、もっぱら大中華主義による同化主義を進めていくようになる。なお孫文はそもそも五色旗を嫌い、国旗制定論争時には中国同盟会の青天白日旗を採用するように主張したが、却下されている。
 
清朝の政体は五族のそれぞれが別の国家とも言える政体を維持し、清朝皇帝はその五つの政体に別個の資格で君主として君臨するという一種の同君連合というのが実態であった。そのため、漢族社会に深く溶け込んでいた満州族を除く[[モンゴル]](蒙古族)、西域[[ムスリム]]社会(回)、[[チベット]]の実質三ヵ国は、漢族による中華民国政府の統治下に置かれることをよしとせず、清朝皇帝権の消滅をもって独立国家であると主張した。
 
つまり、五族共和の実態とは、漢族を中核にして旧清朝皇帝臣下であった全政治集団治下の民を、新たな中華民国の[[国民]]に再組織化するためのスローガンに他ならなかった。この中華民国の国家戦略は中華人民共和国にも引き継がれ、現在は漢族と55の公認された[[中国の少数民族|少数民族]]からなる[[中華民族]]が、古代からの中国の分割不能な国民であるとする公式見解へとつながっている。
 
== 関連項目 ==