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'''勾当内侍'''(こうとうのないし)とは、掌侍の第一臈(上首)のこと。[[八咫鏡]]を安置する[[内侍所]]の[[勾当]](事をもっぱら担当するの意)を務めたことによる。また、御所の「長橋」に居室があったことから、'''長橋局'''(ながはしのつぼね)とも称された。呼び名は自己の氏や父兄の官職の名称にちなんで呼ばれることが多かった。
 
宮中における経理・総務・人事・庶務などの事務処理全般を統括し、更に官位などの要望取次や訴訟などの実請伝宣など天皇と宮中内外との取次を担当した。尚侍が后妃化して内裏のことを行わなくなると、従来尚侍の権限とされていた[[内侍宣]]発給の手続を勾当内侍が代わりに行うようになり、内侍宣が廃れると代わりに[[女房奉書]]を掌るようになった。そのため、古くは尚侍で最も年長者がこの役目を担っていたが、[[室町時代]]以後には天皇による任命に代わった。この権限は[[江戸時代]]末期まで続き<ref>後桃園天皇の時代に大御乳人を務めた[[松室鎮子]]の「後桃園天皇大御乳覚帳」([[宮内庁書陵部]]所蔵)には、勾当内侍の職務として女官・稚児の採用及び元服、天皇の祈祷料支出・公家の拝借金申請の処理、寺社や御用商人や江戸幕府[[禁裏付|禁裏附]]との交渉、儀式の際の祝儀などの進物処理、天皇及び宮廷内外との連絡などが挙げられている(高橋、2009年、P136)。</ref>、[[礼銭]]などの収入も多く「千両長橋」の異名を持つ者もいた。また、勾当内侍と他の掌侍との待遇の違いは大きく、掌侍は従五位の待遇を受けるのに対して勾当内侍は正五位下の待遇を受けた。また、知行も他の掌侍は100石であったのに対して勾当内侍は200石を与えられていた<ref>なお、江戸時代の女官で最高位であった典侍の知行が120石であり、勾当内侍の知行はそれさえも上回り女官中最高の知行を得ていた(高橋、2009年、P4-5)。</ref>。更に天皇の交代時に掌侍は新天皇が新たに任命した掌侍(主として東宮御所時代の女官)と交替して内裏を去る(前天皇の退位の場合には仙洞御所に移り、崩御の場合には剃髪(出家)する)のに対して、勾当内侍のみが引き続き新天皇に仕えて、引退もしくは逝去時に典侍への昇進が取り図られる場合もあった。
 
なお、『[[太平記]]』に登場する[[世尊寺経尹|一条経尹]]の娘([[新田義貞]]の妻)の[[勾当内侍]]は特に著名で、様々な伝説を残している。