「県犬養三千代」の版間の差分

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時期は不詳であるが美努王とは離別し、[[藤原不比等]]の後妻となり、[[光明皇后|光明子]]・[[藤原多比能|多比能]]を生んだ(多比能の母に関しては異説あり)。不比等は[[持統天皇]]3年([[689年]])段階で直広肆・判事の職にあった少壮官僚で、持統天皇10年([[696年]])には高市の死去に伴い不比等は政権中枢に参画した。文武天皇元年([[697年]])8月には不比等の娘[[藤原宮子|宮子]]が即位直後の文武天皇夫人となり、藤原朝臣姓が不比等とその子孫に限定され藤原氏=不比等家が成立する。こうした文武天皇即位に伴う不比等の栄達の背景には、阿閉皇女の信頼を受けた三千代の存在があったと考えられている(義江 2009)。
 
『[[続日本紀]]』に拠れば慶雲4年([[708年]])7月壬午(17日)には阿閉皇女は[[即位]]し(元明天皇)、翌[[和銅]]元年11月には[[大嘗祭]]が行われた。元明即位に伴い不比等は右大臣に任じられている。『続日本紀』には三千代に関する記事が見られないが、葛城王の[[上奏]]文によれば、元明は[[癸未]](25日)の御宴において三千代は元明から天武天皇の代から仕えていることを称されて杯に浮かぶ[[]]とともに橘宿禰の[[姓]]を賜り、[[橘氏]]の実質上の祖となった。県犬養一族のなかで橘姓への改姓は三千代のみであるが、三千代は改姓後も県犬養一族に属し続けている。また、藤原宮跡からは大宝元年の年記を持つ「道代」[[木簡]]と大宝三年の年記を持つ木簡群に含まれる「三千代」木簡が出土しており、橘姓への改姓と同時に名も道代から三千代に改名したと考えられている(義江 2009)。なお、同年5月には前夫の美努王が死去している。
以後も後宮に大きな影響力を及ぼし続け、不比等による[[藤原氏]]の覇権の確立を援けた。
 
元明の即位後は宮人筆頭として不比等とともに[[朝廷]]において影響力を強めたと考えられている。『[[続日本紀]]』に拠れば三千代は[[養老]]元年([[717年]])に従三位に引き上げられておりこれが[[正史]]における三千代の初見となっている。養老元年以前の三千代の職掌・位は不明であるが、霊亀元年(715年)時点で従四位・[[尚侍]]の任にあったと考えられている。翌霊亀2年(716年)には娘の安宿が皇太子首([[聖武天皇]])のキサキとなり(光明皇后)、同時期には県犬養唐の娘[[県犬養広刀自|広刀自]]も首のキサキとなっており、三千代の推挙と考えられている。
『[[続日本紀]]』に拠れば慶雲4年([[708年]])7月壬午(17日)には阿閉皇女は[[即位]]し(元明天皇)、翌[[和銅]]元年11月には[[大嘗祭]]が行われた。『続日本紀』には三千代に関する記事が見られないが、葛城王の[[上奏]]文によれば、元明は三千代が天武天皇の代から仕えていることを称されて杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の[[姓]]を賜り、[[橘氏]]の実質上の祖となった。県犬養一族のなかで橘姓への改姓は三千代のみであるが、三千代は改姓後も県犬養一族に属し続けている。なお、同年5月には前夫の美努王が死去している。
 
元明の即位後は宮人筆頭として不比等とともに[[朝廷]]において影響力を強めたと考えられている。養老4年([[720年]])には夫の不比等が死去し、『続日本紀』に拠れば翌[[養老]]5年には[[正三位]]に叙せられ、宮人としての最高位に叙せられている。同じ年元明天皇の危篤に際し[[出家]]。[[733年]](天平5年)1月11日に薨去。死後の同年12月28日に[[従一位]]、[[760年]]([[天平宝字]]4年)[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]に[[正一位]]と大夫人の称号を贈られた。
 
== 人物 ==