「篆書体」の版間の差分

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'''篆書体'''(てんしょたい)は[[漢字]]の[[書体]]の一種。「篆書」「篆文」ともいう。
 
広義には[[秦]]代より前に使用されていた書体全てを指すが、一般的には[[周]]末の[[金文]]を起源として、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に発達し、さらに整理され公式書体とされた'''小篆'''とそれに関係する書体を指す。
 
公式書体としての歴史は極めて短かったが、現在でも印章などに用いられることが多く、「古代文字」に分類される書体の中では最も息が長い。
 
== 特徴字形の変化 ==
[[ファイル:始皇帝 (篆文).svg|thumb|150px|篆書体による「始皇帝」]]
[[金文]]から更に字形の整理が進み、方形を志向しているも一文字大きさ多い均等になった。文字の形は天地が長い長方形の辞界に収まるように作られる。点画は水平・垂直の線を基本とし、円弧をなす字画はすみやかに水平線・垂直線と交差するように曲げられる。画の両端は丸められ、線はすべて同じ太さで引かれる。
 
== 評価 ==
このため金文と違って上下左右の大きさのバランスが整っており、極めて理知的で謹厳な印象を与える文字に進化している。一方曲線を主体とするため有機的な趣きを併せ持ち、独特の雰囲気を持つ書体となっている。
 
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[[紀元前221年]]、[[秦]]は中国統一を成し遂げた。この際、法治の確立や[[度量衡]]の統一の他、文字の統一が行われ、小篆が正式に統一書体として採用された。小篆は[[始皇帝]]が[[李斯]]に命じて籀文(もしくは大篆)を簡略化したもの、あるいは李斯の進言により当時の秦で行われていた籀文由来の文字を採用したものともいわれる。
 
始皇帝はこの小篆を権力誇示の手段として用いた。元々[[甲骨文]]の時代から文字は権力の象徴であり、それを引き継いでのものである。現に彼は自分を讃える銘文を刻んだ'''「[[始皇七刻石]]」'''を国内6ヶ所に立て、大いにその権力を示した。
 
また小篆は秦が「統一された法治国家」であることを示すため、国の公式証明手段としても用いられた。度量衡の統一の際、決まった大きさの分銅や枡が標準器として全国に配布されたが、これに'''「[[権量銘]]」'''と呼ばれる小篆を用いた証明文が、金属製の場合直接刻み込まれ、木製の場合銅板に刻まれて貼りつけられた。また、官吏が公式証明に用いる[[官印]]にも用いられた。
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=== 隷書への展開と衰微・変質 ===
しかしそのような国の意図とは裏腹に、小篆はすぐにその形を崩し始める。法治国家である[[秦]]では、下層の役人が現場で事務処理を行うことが多くなった。彼らにとって複雑な形をした小篆はきわめて書きづらいものであり、自然走り書きが多く発生する結果となった。このことが小篆の書体の単純化・簡素化を生み、やがて[[隷書]]を生むことになるのである(隷変)。
 
[[紀元前206年]]に秦滅亡すると、[[楚漢戦争]]を経て[[前漢]]が立った。前漢とそれに続く[[後漢]]では公式書体として小篆ではなく隷書が採用されることになったが、このことには小篆の煩雑さを避けるためという意図があった。またこのような「筆記手段」としての役割を優先した文字政策は、「権力の象徴」として存在し続けていたそれまでの文字の概念を完全に覆すものであり、[[甲骨文]]以来続いた「古代文字」の時代の終焉を示すものでもあった。
 
一時[[新]]代に公式書体に返り咲いたが、新の滅亡とともに再び公式書体から外され、以後しばらくの間小篆は「公的証明」の名残から官印・公印に用いられる他は、ほとんどの場合装飾的に瓦や鏡などの文様、碑や帛書の表題などに用いられるにすぎなくなる。
 
また後漢代の「[[祀三公山碑]]」や「[[嵩山三闕銘]]」、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]における「[[天発神讖碑]]」「[[封禅国山碑]]」のように碑も少数ながら存在したが、いずれも天や神への願文や天のお告げを示した特殊な内容で、小篆の権力性がいつの間にか天や神に通じる性質のものへ拡大され、「神へ祈るための文字」として認識されるようになっていたことが分かる。つまり漢代以降小篆は、その字形や権力性から性質が変化することで、ごく一部を除いて装飾や祭祀のための特殊な文字として認識されるようになっていのである
 
そのような認識の変化がやがて文字そのものにも及ぶ。当初、漢代では[[秦]]から時代が遠くないこともあり、せいぜい隷書の書き方が入ったり線を角ばらせたりする程度のアレンジ変化や崩れで済んでいた(漢篆)。しかし漢末や[[六朝時代]]以降になると完全に混沌状態になり、小篆から大量の装飾書体が生まれるなど、どんどん本来の姿から遠ざかっていくことになる。
 
その中でわずかに後漢代、[[訓詁学]]の第一人者・[[許慎]]が、[[儒学]]研究の一環として小篆を「古代文字」として真正面から扱い、小篆を中心とした字書『[[説文解字]]』をものして字義などの解釈をなしたが、あくまで学問的追究であり、書における展開は見られなかった。
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唐の中ごろ、詩人の[[韓愈]]らが[[六朝]]の四六駢儷文を否定し[[古文復興運動]]を行った影響で、書道にも[[王羲之]]以前、すなわち[[隷書]]以前を志向する復古主義的な気運が生まれた。
 
そのような風潮の中、小篆は[[李陽冰]]などによって大きく注目されることになり、それまでの崩れた書法を排した、本来の姿に近い小篆による書道作品や石刻が多くものさ使われるに至った。これにより、小篆は[[書道界]]に一書体として再興することになる。
 
[[五代十国]]の[[南唐]]および[[北宋|宋]]代には、[[徐鉉]]・[[徐鍇]]兄弟により『[[説文解字]]』の校訂・注釈が行われ、現在見られる『説文解字』のテキスト(大徐本)が作られるとともに、小篆による書道も引き継がれた。
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小篆はじめ篆書は書道の書蹟として研究されるほか、漢字史の研究材料としても広く用いられている。
 
これは「隷変」や[[楷書]]への展開により字形が現在の形へ変化するうちに失われてしまった、さまざまな情報を篆書、なかんずく小篆が持っているからである。これと「隷変」の過程を見たりすることでさまざまな研究が成り立つ。
 
たとえば「右」「左」は似ている字なのに、書き順は異なりそれぞれはらいと横棒を第1画目とする。楷書のままではその理由は分からないが、小篆に戻ると「右」のはらいと「左」の横棒が実は左右対称ながら同じ形をしており、第1画目であったことが分かる。それらが「隷変」の過程でそれぞれはらいと横棒という別の形に変化してしまったために、現在のような書き順になってしまったと説明出来るのである。
 
ただし正確な研究には、篆書以前の[[甲骨文]]や[[金文]]の情報も必要になる。既に篆書以前の段階で失われた情報も多いからである。事実[[許慎]]の『[[説文解字]]』は、甲骨文や金文の知識がなかったためにさまざまな間違いを起こしている。
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[[ファイル:JapanpassportNew10y.PNG|thumb|right|180px|日本国旅券の表紙。上部に「日本国旅券」と記す]]
=== 利用実態 ===
前述の通り小篆は現代でも書道や印章の世界では現役の書体である。
 
日常の書体としては[[旅券]]の表紙や一部の店の看板に使用されている程度であったが、最近では字形の面白さから装飾文字やデザインとしても用いられることも多くなっている。
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==== 伝統的小篆との衝突 ====
[[書道]]用・[[篆刻]]用書体としての小篆は『[[説文解字]]』などしかるべき文献基準としにあり、字形が大きく現状と異なっても手を加えることはしない。また当時存在しなかった字は、相当する別字で代用するのが普通である。
 
造字行為はよほどの理由がない限り避けるべきとされ、現在も「絶対にやるべきではない」「やむを得なければやってもよい」「こだわらず自由にやってもよい」と人によって許容範囲が大きく異なるデリケートな問題となっている。