「柵口雪崩災害」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
超プロ住民 (会話 | 投稿記録)
+cat
写真の説明の追加(黄色枠)、直前の気象
8行目:
|casualties2 = 9人負傷
}}
[[ファイル:Maseguchi Snow avalanche Stereogram.jpg|thumb|right|280px|1976年(昭和51年)に撮影された{{国土航空写真}}。[[ステレオグラム]](交差法)。雪崩の範囲(赤枠)。雪崩導流堤(青線)。減勢柵(緑線)。防護柵(紫線)。1947年に発生した地すべりの範囲(黄色枠)、変動の大きな部分(オレンジ枠)と滑落崖(オレンジ点線)]]
'''柵口雪崩災害'''(ませぐちなだれさいがい)は、1986年、[[新潟県]][[西頸城郡]][[能生町]](現・[[糸魚川市]])で13名が死亡した[[雪崩]][[災害]]である。この大規模な雪崩災害は、以後の雪崩対策を推進する契機ともなった<ref name="pwri">独立行政法人土木研究所「[http://www.pwri.go.jp/jpn/kenkyuujo/gyoumu/2005/gyoumu_h17c.pdf 国民に対して提供するサービスその他の業務の質の向上に関する目標を達成するためとるべき措置]」</ref>。
 
== 概要 ==
16行目:
山頂直下で発生した雪崩はおよそ45度の急斜面をすべり落ちた。その急斜面の下には窪地があり、夏場に降る雨は窪地を伝って北の谷に流れているが、この冬は大量の積雪と数回の雪崩により完全に埋もれてしまい、雪崩はそこを東に乗り越えた。ふもと付近の斜度は約10度と比較的緩やかであるが勢いは止まらず、穏斜面を1km以上も流れ民家に達した。この雪崩によって13名が死亡、9名が負傷。19棟が損傷し、内16棟が全壊した。多くの立ち木が折れ曲がり、家屋は300mほど飛ばされ、その屋根のトタンの一部は、突風による被害と同様に樹木にからみついていたものが発見された。表層雪崩は、煙り状となる暴風を伴い、地元民は古くから「ホウ」「アイ」「ウワボウ」などと呼び恐れていた<ref name="NAID110002941862">[http://ci.nii.ac.jp/naid/110002941862 新潟県能生町柵口地区を襲った災害雪崩](新潟県能生町表層雪崩災害総合研究班)</ref>。
 
この年の1月中旬は、寒気も緩み珍しく山頂部も雨となって、ざらめ状の雪面を形成した。その後の1週間は大雪で、堅い雪面の上に柔らかい新雪が降り積もった<ref>新潟雪崩研究会発行「雪崩のはなし」P12</ref>。当日は、低温弱風の下での降雪で雪粒子の結合がゆるい状態となり、そこにおよそ秒速7mの地吹雪が起こり雪崩のきっかけとなったことが、周辺で計測された気象データの解析により判明した<ref name="NAID110002941862" />。雪崩は、最大速度180km/h、走行距離1,800m、デブリ量10-30万m<sup>3</sup>と推測されている<ref name="post-5ebe">[http://egakatsu.air-nifty.com/blog/2011/01/post-5ebe.html 低標高地の小規模万年雪]</ref>。
 
== 集落を直撃した原因 ==
雪崩災害のあった箇所では、以前、1947年(昭和22年)5月19日に地すべりが発生していた。幅1.5km、長さ2kmの範囲の土地(写真:黄色の枠)のうち特に変動の大きな部分(地図上写真:オレンジの枠)が、時速10-15cmのゆっくりとした動きで翌20日まで続き、53戸の人家を含む114の建物を破壊した。このとき地すべりの最上部には、地面のずれによって滑落崖(かつらくがい)と呼ばれる「がけ」(地図上写真:オレンジ点線)が現れた。
 
雪崩災害は、この滑落崖が雪崩を捉え、さらに地すべり跡の地溝に沿って北に湾曲し、集落を直撃するに至ったものである。それ以前の山頂付近で発生した雪崩は、直進的に東に進み、しだいに南斜面に沿って南へ曲がり、民家のないヒソノ又川沿いに達していたと考えられている<ref>新潟雪崩研究会発行「雪崩のはなし」P13</ref>。