「淳于瓊」の版間の差分

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同年10月、淳于瓊は兵糧輸送の任務を袁紹に命じられ、督将の眭元進・騎督の韓莒子・[[呂威コウ|呂威璜]]・趙叡の四将を率いて烏巣に駐屯した。ところがその警備体制は充分ではなく、このことを離反した[[許攸]]が曹操に密告したため、曹操は淳于瓊の陣を急襲してきた。それでも淳于瓊は曹操軍の来襲によく対応し、袁紹も軽騎兵を烏巣への援軍に差し向けたため、一時は曹操の方が危地に陥る。しかし、曹操は決死の覚悟で強襲を続行したために、遂に淳于瓊軍は殲滅させられた。淳于瓊は曹操の部将[[楽進]]に斬られ、眭元進ら四将も曹操軍により尽く討ち取られた(『三国志』魏書武帝紀,魏書楽進伝)。
 
なお、『三国志』魏書武帝紀の注に引く『曹瞞伝』は、淳于瓊の最期について異説を掲載している(『曹瞞伝』では「淳于仲簡」とされているが、この人物は明らかに淳于瓊に該当する)。烏巣の陣を落とされた淳于瓊は、鼻を削がれて生け捕りとされてしまう。連行されてきた淳于瓊に曹操が「なぜ君は敗北したのか」と聞くと、淳于瓊は「勝敗は天に委ねるものである。何を問うことがあるのか」と答えた。その潔さを認め、曹操は淳于瓊を帰服させようとしたが、先に帰服した許攸が「鏡を見る度に淳于瓊は我らに恨みを抱くでしょう」と讒言したため、斬首されたという。ただし、『曹瞞伝』の史料としての信憑性はかなり低いことを、考慮する必要がある
 
烏巣の戦いの前に、沮授は淳于瓊を援護するため事前に[[蒋奇]]率いる別働隊を派遣し、曹操の奇襲に対応するよう進言していた。しかし袁紹はこれを受け入れず、後手に回る結果となったのである。こうして顔良・文醜に続き、またしても袁紹は有望な軍指揮官を失ったのであった。