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'''嵆 康'''(けい こう、[[224年]] - [[262年]]あるいは[[263年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]の[[文人]]。[[竹林の七賢]]の一人で、その主導的な人物の一人。字は'''叔夜'''。
==経歴==
譙国銍(現在の[[安徽省]][[宿州市]])の人。[[曹操]]の曾孫娘の長楽亭主(沛穆王[[曹林]]の孫娘)を妻とし<ref>『[[魏書 (曖昧さ回避)|魏書]]』曹林伝にある[[裴松之]]が引く『嵆世譜』より</ref>、魏の[[宗室]]の姻戚として中散大夫に任じられたので、'''嵆中散'''とも呼ばれる。子に[[ケイ紹|嵆紹]]や娘がいる。
非凡な才能と風采を持ち、日頃から妄りに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり、鍛鉄をしたりするなどの行動を通して、[[老荘思想]]に没頭した。気心の知れた少数の人々と、[[清談]]と呼ばれる哲学論議を交わし名利を求めず、友人の[[山濤]]が自分の後任に、嵆康を吏部郎に推薦した時には、「与山巨源絶交書」(『[[文選 (書物)|文選]]』所収)を書いて彼との絶交を申し渡し、それまで通りの生活を送った。ただし死の直前に、息子の嵆紹を山濤に託しているように、この絶交書は文字通りのものではなく、自らの生き方を表明するために書かれたものである。
嵆康の親友であった呂安は、兄の呂巽が自分の妻と私通した事が原因で諍いを起こし、兄を告発しようとしたところ、身の危険を感じた呂巽によって先に親不孝の罪で訴えられた<ref>『[[文選 (書物)|文選]]』所収の[[向秀]]「思旧賦」李善注が引用する[[干宝]]『晋書』より。</ref>。この時嵆康は呂安を弁護しようとしたが、[[鍾会]]は以前から嵆康に怨恨があり、この機会に嵆康と呂安の言動を風俗を乱す行いだと[[司馬昭]]に讒言した。このため、先に仕官を拒否したことと共に罪状に挙げられ、嵆康と呂安は死罪となった<ref>なお『[[世説新語]]』簡傲篇によると、嵆康の留守中に呂安が訪問した際、嵆康の兄の嵆喜(嵆紹の後を継いだ[[ケイ翰|嵆翰]]の曾祖父)がいたので、呂安は門戸の上に「鳳」と記して立ち去った。嵆喜はその意味を知らずに喜んだが、実はこれは「凡鳥(「鳳」を二字に分解した)」を意味していたという逸話がある。</ref>。
当時、汲郡に[[孫登_(隠者)|孫登]]という道士がいた。嵆康は山に薬草を採りに行った時に知り合い、彼の元に3年通っていたが、孫登は一言も口を利こうとしなかった。別れる時に嵆康は言った、「先生、ついに口を利いていただけないのでしょうか」。そこで孫登は初めて口を開いた。「あなたは多才だが見識が乏しい。難を免れるのは難しいぞ、今の世の中では」<ref>『[[三国志_(歴史書)|三国志]]』王粲伝付、嵆康伝注『魏氏春秋』、『[[晋書]]』孫登伝</ref>。結局、孫登が警告した通りの最期を遂げた。
嵆康は「[[古琴|琴]](きん)」を演奏する事を好み、ある時に謎の人物から「[[広陵]]散」と呼ばれる琴の曲を学び得意としていたが、誰にもそれを教えなかった。刑の直前にこの曲を演奏し「広陵散今に於いて絶ゆ」と言い残し処刑されたという<ref>『[[世説新語]]』雅量篇より。</ref>。「声無哀楽論」・「琴賦」を著すなど、音楽理論に精通していた。
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