「相良長在」の版間の差分

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| 生誕 = [[元禄]]16年[[3月22日 (旧暦)|3月22日]]([[1703年]][[5月7日]])
| 死没 = [[元文]]3年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]([[1738年]][[8月10日]])
| 改名 = 求馬(幼名)、長、長在
| 別名 =
| 諡号 =
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}}
 
'''相良 長在'''(さがら ながあり/ながあきら<ref>『人吉市史 第一巻』では、長敞と称していたときの読みと同様、「ながあきら」としている</ref>)は、[[肥後国|肥後]][[人吉藩]]の第6代藩主。
 
元禄16年(1703年)3月22日(異説として2月22日)、第4代藩主・[[相良頼福]]の五男として生まれる。[[享保]]5年([[1720年]])7月1日に第5代藩主で兄の[[相良長興|長興]]の養子となり、享保6年(1721年)7月11日に長興の[[隠居]]により家督を継いだ。藩政においては度々の大雨・[[洪水]]・[[旱魃]]・虫入に加え、[[享保の大飢饉]]に苦しんで藩財政はさらに悪化した。また享保10年([[1725年]])7月に家中之式制、禁制などを制定した。
 
元文3年(1738年)、江戸から帰国する途上で発病し、6月25日に[[豊前国|豊前]]大里において死去した。享年36。跡を長男・[[相良頼峯|頼峯]]が継いだ。
== 脚注 ==
<div class="references-small"><references/></div>
 
{{人吉藩主|6代|1721年 - 1738年}}
 
{{デフォルトソート:さから なかあきら}}
[[Category:相良氏|なかあきら]]
[[Category:人吉藩主|なかあきら]]
[[Category:1703年生]]
[[Category:1738年没]]