「強制収容所」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2012年9月}}
[[File:Konsentrasiekamp Krugersdorp.jpg|thumb|300px|イギリス政府による[[アフリカーナー]]強制収容所(南アフリカ)]]
'''強制収容所'''(きょうせいしゅうようじょ、{{lang-en-short|concentration camp}}、{{lang-de-short|Konzentrationslager}}、{{lang-ru-short|лагерь}})とは、[[戦争]]時における国内の敵性[[外国人]]や、反政府主義者など、その時の[[政府]]が敵対視する者などを[[治安]]の維持のため強制的に[[財産]]などを没収の上に収容するための[[施設]]のことである。強制収容には、彼らに[[スパイ]]活動や[[破壊活動]]をさせないということと、不必要に彼らが[[迫害]]や[[暴力]]の犠牲にならないようにという二重の意味があるといわれるが、これまであった強制収容所のありようから考えればそれが後者の意義から設けられたことはほとんどないに等しい。
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ソ連における収容所は1920年代から[[第二次世界大戦]]をはさんで1940年代まで拡大し続け、1950年代はじめに最大規模に達し、[[ソビエト連邦の経済|ソヴィエト経済]]で中心的役割を演じるようになっていた。収容所は全国で少なくとも500箇所近くに存在していた。収容所に収容された人の数は数百万人から数千万人説まであり、全労働力人口の一割以上を占めたともいわれる。収容所の組織的運用によりソ連は近代において、事実上の奴隷制を公的に有する唯一の国家になった([[ラーゲリ]]の記事も参照のこと)。[[スターリン]]時代の[[1926年]]には刑法58条、通称「[[反革命罪]]」が制定され、これ以降多くの共産党員、民間人、外国人がこの罪状により強制収容所へ連行された。過酷な労働により多くの囚人が刑期を終えることなく死亡したとされている。スターリン死後、後継者の[[ラヴレンチー・ベリヤ|ベリヤ]]は自由化キャンペーンにより収容所の規模を縮小し、囚人を解放するなどしたため、条件は幾分緩和されたものとなった。
 
[[画像ファイル:Buchenwald Slave Laborers Liberation.jpg|250px|right|thumb|[[ブーヘンヴァルト強制収容所]](1945年、ドイツ)]]
[[ファイル:STOCKADE in Okinawa.jpg|thumb|200px|沖縄における収容所]]
[[第二次世界大戦|第二次大戦]]中の強制収容所といえば、一般には[[ナチス・ドイツ]]による[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]](Konzentrationslager、略称: KZ)が有名である。この時の主な被収容者は[[ユダヤ人]]や障害者、[[同性愛者]]、政治犯であり、最終的には[[ホロコースト]]([[ジェノサイド]])を目的としていたとされる。政治犯対象の強制収容所のみ例外で、ここは[[ガス室]]ではなく、[[泥炭]]地での過酷な強制労働が中心だった。ドイツ国内、それもオランダ国境に近い東[[フリースランド]]地方に設置された。他の収容所はほとんどがドイツ国外にあった。多くはドイツの敗戦により解放されたがドイツ国内のブーヘンヴァルト強制収容所のみ囚人らの武装蜂起によって解放されている。
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*[http://zamphir.litek.ws/ A thorough examination of Treblinka, Sobibor and Belzec]
*[[:en:Rab concentration camp]]
 
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[[af:Konsentrasiekamp]]