「岡田茂 (東映)」の版間の差分

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格闘をモチーフにした[[アクション映画]]は、1973年の[[千葉真一]]主演映画『[[ボディガード牙]]』からだが、これは[[週刊サンケイ]]に連載していた[[梶原一騎]]の[[劇画]]を映画化したもの。当時の梶原は『[[巨人の星]]』、『[[あしたのジョー]]』、『[[空手バカ一代]]』と次々ヒット作品を発表していたので、目をつけていた。当時の岡田は何をやってもうまくいかず、『ボディガード牙』に続く翌1974年の格闘映画『[[激突! 殺人拳]]』(主演:千葉真一)が、東映にとって久々の大当たりした作品になり、岡田はよっぽど嬉しかったらしく、[[祝電]]をいっぱい打っていた<ref name="困った_91-92" />。『激突! 殺人拳』は『[[燃えよドラゴン]]』の前評判が高くなった1973年の秋に「千葉(真一)で行け」と岡田が号令を出して製作したもの<ref name="活動屋人生_43-53"/>。[[フランシス・フォード・コッポラ]]が[[アル・パチーノ]]と千葉の共演で映画を作りたいと岡田に打診してきたことがあるという<ref name="活動屋人生_62-73"/>。
 
'''{{Main2Main|詳細は「[[激突! 殺人拳]]」を}}'''
 
スケ番シリーズを打ち切って、折からのブームに乗り空手路線を掲げる。「現代版お竜」を謳い文句に「日本初の[[スタントマン|スタントウーマン]]」と銘打ち『[[女必殺拳]]』(1974年)で主演デビューさせたのが[[志穂美悦子]]であった<ref name="週刊サンケイ19740801_28" />。最初は[[アンジェラ・マオ]]主演で企画したが諸事情で実現せず、志穂美の抜擢となったとされる<ref name="秘宝200804_84" /><ref name="週刊朝日19750606_17" /><ref name="秘宝201012_101" />。
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=== パニック・サスペンス ===
『[[新幹線大爆破]]』(1975年)は、岡田自らの企画<ref name="私の30年_160-161" />。『[[仁義なき戦い]]』を始めとする[[実録シリーズ]]が[[1974年]](昭和49年)に入ると下火になっていたおり<ref name="小沢">{{Cite book|author = 小沢茂弘|authorlink = 小沢茂弘|coauthors = 高橋聡|year = 1996|title = 困った奴ちゃ―東映ヤクザ監督の波乱万丈生|publisher = [[ワイズ出版]]|pages = 91 - 92頁|isbn = 9784948735576}}</ref>、『[[激突! 殺人拳]]』シリーズなど格闘映画は大ヒットしていたものの<ref name="小沢"/>、[[1974年]]([[昭和]]49年)[[5月]]に岡田は天尾完次との打ち合わせで、[[ヤクザ映画]]に代わる素材を探していた。岡田は「大体[[アメリカ]]でヒットしているものが、間もなく日本でも受けるようになる。だから常にアメリカの動向を観察していなければならない」というのがあり、そのときアメリカで『[[大地震 (1974年の映画)|大地震]]』『[[サブウェイ・パニック]]』『[[タワーリング・インフェルノ]]』など、いわゆる[[パニック映画]]が非常に受けていて、間もなく日本に輸入されてくるはず、それが『[[エクソシスト (映画)|エクソシスト]]』などの後をうけて大当たりするはずだ、という結論に達した。では、それを日本でやるとすると材料は何かと考え、[[日本航空インターナショナル|日航機]][[ハイジャック|乗っ取り]]などが候補に上がったが、その中で日本だけにあって題材となるものといえば[[新幹線]]しかない、新幹線を乗っ取る、あるいは爆発させるというストーリーは日本だけでしか出来ないし、外国に持っていっても遜色ないものが出来るに違いない、それをやろうじゃないか、というのがこの企画のスタートだった<ref name="キネ旬1975071_88-94" />。1975年3月の[[山陽新幹線]]の[[博多]]開業に合わせて公開しようとした便乗企画。当時、国鉄へ日に何回か爆破の脅迫電話がかかってくる事実をヒントに製作に着手したもので、当初のタイトルは『新幹線爆破魔を追え』というタイトルで、この年ヒットしていた『[[サブウェイ・パニック]]』(日本公開1975年)+『[[大空港 (映画)|大空港]]』(1970年)の新幹線版という触れこみであった<ref name="週刊サンケイ19750220_28" /><ref name="週刊朝日19750214_37" />。『新幹線大爆破』は、『[[タワーリング・インフェルノ]]』に正面からぶつけるという興業的タイミングの悪さで惨敗。『タワーリング・インフェルノ』は当時の史上最高興収を記録した<ref name="シネアルバム46_190-191" />。便乗企画では『[[愛のコリーダ]]』(大島渚プロ=アルゴスフィルム、1976年)で日本映画初の“[[本番行為|本番]]”が大きな話題を呼んだ[[松田英子]]を獲得し『[[大奥浮世風呂]]』(1977年)という得意のエロ時代劇に主演させたこともある<ref name="週刊新潮_19770120_13" />。
 
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深作欣二の傑作の一つ『暴走パニック 大激突』([[1976年]])は『新・仁義なき戦い 組長の首』([[1975年]])のカーアクションが面白いので、日本で大ヒットしたアメリカ映画『[[バニシングin60″]]』をミックスして作れと号令したもの<ref name="Hotwax3_70" />。[[1979年]]、[[田中健 (俳優)|田中健]]・[[岡田奈々]]主演の『暴力戦士』は、[[ウォルター・ヒル]]監督の『ウォリアーズ』で行け、と石井輝男に撮らせたもの<ref name="石井輝男_233_358" />。この『暴力戦士』には他に、欠食児童状態([[石橋凌]]談)の[[ARB (バンド)|ARB]]が出演している。石橋はプロデューサーに「好きなもの食べなさい」「音楽を必ず5曲は使うから」と騙されて出演したが「うっすらとしか曲は流れなかった」「僕の中では永遠に葬りたい」などと話している<ref name="秘宝200711_69" />。
 
=== ソビエト映画との関わり ===
[[1974年]]の『[[樺太1945年夏 氷雪の門]]』あたりから[[ソビエト]]の[[モスフィルム]]との付き合いが始まり、モスフィルム所長ニコライ・シゾフとの共同製作で[[1980年]]『[[甦れ魔女]]』を製作。この後、[[オオカミ|シベリアオオカミ]]を主人公にした映画、という岡田の企画が8年越しで実現したのが[[1990年]]の『オーロラの下で』<ref name="活動屋人生_258-266"/>。
'''{{Main|オーロラの下で }}'''
その後もモスフィルムと提携して合弁会社「トーモス」を設立、[[東映太秦映画村]]のモスクワ版を作るというプロジェクトも進めたがその後の詳細は不明<ref name="活動屋人生_258-266"/>。モスフィルムの3700本の日本上映権は1990年9月契約した<ref name="活動屋人生_258-266"/>。