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Arme (会話 | 投稿記録)
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[[大日本帝国陸軍]]では、曹長は[[特務曹長]]、[[軍曹]]、[[伍長]]と合わせて[[下士官]]のひとつである。同期兵は伍長から軍曹には同時に進級できたが、軍曹から曹長への進級には個人差があった。官吏の等級では、[[判任官]]二等にあたる。
 
平時の部隊では中隊附諸官の一人として中隊の庶務(経理を含む)を担当し、庶務掛、給養掛、経理掛などと呼ばれた(呼称は部隊と時代により異なる)。たいてい人事掛特務曹長の隣に席を構え助手の兵隊を使って日永一日算盤を入れたり伝票を整理して記帳して忙しそうにしており、内務班の兵隊はあまり曹長と接触する機会がなかった。あるとすれば10日毎に事務室に並んで給料を手渡される際に受領の判子の手入が悪いと叱られる程度である。毎日、喇叭の合図で聯隊本部の週番司令が主催する会報に出ていき、命令を受領してくるのも曹長の役目であった。また中隊附でない者は部隊本部(大隊本部、聯隊本部)及び高等司令部の事務室に於いて書記として事務に従事した。軍装は官給で他の下士官兵と同じであるが、曹長剣と称する長い刀(騎兵刀を充てることが多かった)を吊り長靴を履いた。古参曹長は願に依り営外居住が許可されるので、それまで中隊兵舎の個室で暮らしていたのをやめ、兵営から出て部隊の近所に間借りし妻帯する者がほとんどであった。曹長に進級するのは20歳代末から30歳過ぎにかけてであったから、当時としては晩婚である。勤務成績が悪いと進級が遅れ、「桃栗三年柿八年低能軍曹は十二年」などと兵卒から陰で揶揄された。昭和に入ってからの炊事軍曹は扱いの難しい炊事当番を統率し煩雑な経理もこなさなければならなかったので優秀者を充てたが、これを経験すると曹長進級は確実とされた。
有能な曹長の中には少尉候補者試験を受け士官学校に入学して現役少尉に任官する者もあった。落度なく勤めれば特務曹長(のちの准尉)に進級したが、曹長のまま退営し民間に転職する者もあった。