「ルイ・アントワーヌ (アングレーム公)」の版間の差分
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[[Image:Louis antoine artois.jpg|thumb|アングレーム公ルイ・アントワーヌ]]
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==略歴==
1775年、[[ヴェルサイユ]]に生まれる。伯父[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]によってアングレーム公(duc d'Angoulême)の称号を授けられる。
亡命中の1799年、ルイ16世と[[マリー・アントワネット]]の長女で従妹の[[マリー・テレーズ
1815年の百日天下が終わって第二次復古王政が始まると、[[白色テロ]]を行う超王党派の1人として国内で弾圧を行った。[[スペイン]]で[[ラファエル・デル・リエゴ|リエゴ]]大佐の反乱に始まる革命が起こると、1823年にフランス軍を派遣して王党派を支援し、[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]の復位に寄与した。
1824年に父アルトワ伯が国王シャルル10世として即位すると王太子に立てられたが、[[フランス7月革命|7月革命]]によって再び亡命生活を送る。なお、父シャルル10世の退位後、短時間だが形式的に王位を継承したともされ、'''ルイ19世'''と呼ばれることがある。しかし、ルイ・アントワーヌは国民に不人気だったため、父王から弟の遺児シャンボール伯[[アンリ・ダルトワ]]への譲位にただちに同意せざるを得なかった。結局、両者とも実際には即位できず、[[
フランス追放後には、姓はド・ブルボンからド・フランスに改め、ルイ19世およびアングレーム公爵以外では、ルイ・アントワーヌ・ド・フランスを名乗った。
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