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[[Image:Gongwangfu.JPG|thumb|right|250px|[[北京]]の[[恭親王邸]]([[:zh:恭王府]])。かつての和シンの邸宅であり、贅を尽くした内装が観光地になっている。]]
 
満族の[[旗人]]の家に生まれるが、家は貧しかった。宮廷には乾隆帝に[[輿]]の担ぎ手として仕えたのを見出され([[民間伝承]]では容貌が乾隆帝が皇子時代、自分の為に死なせてしまった父の妃によく似ていたからであると言われいうものがある)、寵臣として出世をし、[[軍機大臣]]まで登りつめる。乾隆帝は晩年の[[1795年]]には、在位60年を節目に嘉慶帝に皇位を譲ったが、政権は太上皇帝として保持する一方で和珅にこれを委ねた。そのため嘉慶帝といえども政治の決定は和珅を通じて乾隆上皇に可否を仰がねばならなかった。
 
和珅はこの地位を利用し専横の限りを尽くし、収賄によって巨万の富を得た。監察御史による弾劾が行われたが和珅はそのたびにこれを解任して保身に努めた。和珅の厳しい取り立てに反旗を翻して住民が蜂起した[[白蓮教徒の乱]]などが各地で起こった。和珅は兄弟の[[:zh:和琳|和琳]]を反乱の鎮圧に向かわせたが、腐敗して士気の上がらない清朝正規軍の[[八旗]]・[[緑営]]ではもはや反乱を鎮圧することが出来ず、[[郷勇]]と呼ばれる義勇兵と[[団練]]<ref>後に[[曽国藩]]が各地の[[団練]]をまとめて[[湘軍]]を結成し、[[太平天国の乱]]でも鎮圧に活躍した。湘軍が解散された後、不満を持つ将兵の多くが{{仮リンク|袍哥会|en|Gelaohui|label=哥老会}}などに流れ、[[辛亥革命]]では大きな影響を与えた。</ref>と呼ばれる自衛武装集団によって鎮圧した。