「8月10日事件」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Dr jimmy (会話 | 投稿記録)
25行目:
[[1791年]]6月の[[ヴァレンヌ事件]]は、フランス革命の流れに相反する二つの潮流を生み出した。第一は第二に対する反動で、短期的に穏健派と王党派が団結を強めてブルジョワ革命を急いで推し進めようという圧力となった。[[9月14日]]のルイ16世の[[1791年憲法]]への宣誓と復権<ref>ヴァレンヌ事件以後、公の政治活動が事実上停止されていたルイ16世は、憲法に宣誓して立憲君主となって初めて復権できた</ref>、[[10月1日]]の[[立法議会]]の招集、[[立憲君主制|立憲王政]]の成立へとたどり着いた後は、1789年の理想主義者ならこれで革命は終わったのだと信じることはできただろうし、事実、立憲議員の何人かは故郷に帰った。しかし全くそうではなかった。立憲主義者の偽りの勝利と、[[ブルジョワジー]]の分裂([[フイヤン派]]の[[ジャコバン派]]からの分離)をよそに、第二の波、つまり[[民主主義|デモクラシー]]が台頭を始めていたのである。[[バスティーユ襲撃]]で革命に目覚めた革命的民主主義者たちは、次第に数を増やし、失業者や賃金労働者を中心にした[[サン・キュロット]]の革命参加を促して、パリで徐々に政治勢力を形成した。彼らは[[コルドリエ・クラブ]]<ref>ジャコバン・クラブの方がやや穏健派が多く、この時期はまだジロンド派が同クラブでは力があったため、過激分子はコルドリエ・クラブに集まっていた。このクラブは所謂”[[ジャン=ポール・マラー|マラー]]の党”が集うクラブであった</ref>や[[パリ・コミューン (1792年)|自治市会]]に結集して、さらにより急進的な第二世代の指導者を生み出していった。この第二の流れは[[7月17日]]の[[シャン・ド・マルスの虐殺]]やクラブ閉鎖でも、衰えることはなく、鬱積した不満を約1年間ためていった。また第一の流れの副産物として、ウィーンとベルリンの宮廷は{{ルビ|[[エミグレ (フランス革命)|亡命貴族]]|エミグレ}}に唆されて、[[ピルニッツ宣言]]を発したが、これは決して武力介入を意味するものではなかったものの、[[ジャック・ピエール・ブリッソー|ブリッソー]]ら立法議会で新しく多数派になる[[ジロンド派]]を刺激し、過剰に好戦的な愛国主義と、ヨーロッパの諸[[君主]]に対する攻撃的な革命十字軍(革命の輸出)のごとき発想を思い起こさせた。[[フランス革命戦争|革命戦争]]の勃発は情勢を悪化させた。
 
戦争と経済危機([[アッシニア]]暴落と[[砂糖]]の値段の高騰<ref>フランスの[[西インド諸島]]の植民地で反乱([[ハイチ革命]])が起きたために、出荷が止まって商品不足から短期間で価格が急騰し、それにつられて他の非植民地生産物の物価も上がり始めた。怒った民衆は、(民衆による)商品の価格設定を求めるようになり、最高価格令の要求はこの時期から興った。なおこの時点ではイギリスとは交戦状態にはなく、海上封鎖は行われていない</ref>)の影響は市民の生活を直撃した。パリの[[サン・キュロット]]たちは生活改善を求めて再び結集した。この流れはすでに左翼的[[イデオロギー]]を伴っており、生活に直結する切実な要求は次第に濁流のごとく強く激しくなった。運動を支える受動的市民は選挙権を持っていなかったので、彼らの政治的アピールは、武装して行進するといったより直接的な示威行動となって表れたが、能動的市民のなかにもこれに同調する者が現れ、彼らのリーダーとなった。サン=タントワーヌ城外区のビール醸造業者のサンテール<ref>[[アントワーヌ=ジョゼフ・サンテール([[:fr:Antoine Joseph Santerre|Antoine Joseph Santerre]]。ジロンド派のサブリーダーで、後に[[ヴァンデの反乱|ヴァンデ]]などにも派遣される</ref>などはその典型で、このような人々がそれぞれの地区の民兵を組織し、'''革命の暴力'''として顕在化した。急進化する彼らの要求に政治家たちは後追いするばかりだったが、[[共和制]]樹立の要求は日に日に高まっていった。
[[File:PeopleStormingTuileries.jpg|thumb|left|250px|6月20日事件, 群衆に詰め寄られるルイ16世は 「拒否権氏」と野次られた]]
そうした中で[[1792年]][[6月20日]]にサン・キュロットの示威行動事件が起きた。武装した市民が国王の住居たるテュイルリー宮殿の中まで踏み込んできたこの事件は、拒否権を乱発する国王への圧力としてジロンド派が黙認したという側面<ref>市長ペティヨンは議会が厳戒令を布告するのを妨害した</ref>はあるが、武装蜂起がすぐに起きてもおかしくない危険な状況であることを示していた。王政の廃止を最初に口にしたのはジロンド派であったが、すでに事態は彼らの予想を上回るスピードで展開を始めていた。