「藤原喜明」の版間の差分

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それまでは猪木の用心棒というだけで単なる前座の一レスラーに過ぎなかったが、[[1984年]]2月3日の札幌大会で、[[長州力]]を試合直前の花道で襲撃し“'''テロリスト'''”として一躍脚光を浴びる。その日以来長州力率いる維新軍団との抗争で無くてはならない存在になる(実際その頃から[[ワールドプロレスリング]]([[テレビ朝日]])では、関節技を主体とした独特のファイトスタイルや、独特の人相も相俟って毎回中継に登場するレスラーとなり一躍知名度が上がった)。その後は愛弟子の移籍に伴い、同年6月に第1次[[UWF]]に参加。ここで漸く持ち前の関節技のテクニックを披露し、[[プロレス]][[マスメディア|マスコミ]]のバックアップもあり硬派のファンの注目を集める。新日本復帰、第2次UWF参加を経て、[[1991年]]3月に[[藤原組]]を旗揚げしたが、2度に及ぶレスラーの大量離脱([[1993年]]に[[パンクラス]]、[[1995年]]に[[格闘探偵団バトラーツ]]が分裂)を経て、団体としての機能を失った。以後はフリーランスとして選手活動を続けている。
 
[[1993年]]、[[1994年]]と2年連続で古巣・新日本の真夏の祭典『[[G1 CLIMAX]]』に出場。[[1996年]]、[[ドン荒川]]とともに[[全日本プロレス]]に初参戦、6人タッグながら[[ジャイアント馬場]]との対戦が実現した。[[1997年]]には[[WAR (プロレス)|WAR]]に出場し、[[天龍源一郎]]や[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]とのシングルマッチが行われた。その後もメジャー、インディー問わず、数多くの団体に参戦している。
 
その技術を見込まれ、男女問わず(特に[[神取忍]]は弟子といっても良い関係で各種の関節技および一本足頭突きを伝授されている)指導を請う後輩レスラーも多い。[[プロレスリングZERO-ONE|ZERO-ONE]](現[[ZERO1]])時代はフリーとしての参戦ながら[[橋本真也]]のタッグパートナーや若手選手の指導員としても貢献する(ただし、指導はしても弟子は取らないと発言していて、弟子入り志願者にはバトラーツに行くように勧めている)。
 
== 著書 ==
* 藤原喜明のスーパー・テクニック―最強の関節技全公開(1986年5月 講談社 ISBN 4061015117)
* 復刻 幻の藤原ノート――「ゴッチ教室」の神髄
* 藤原喜明の必殺十番勝負―スーパー・テクニック2(1987年11月 講談社 ISBN 406101515X)
* 覚悟ー人生60年、覚悟が生死をわけた!ー
* 男の真剣勝負―I Fight In Dead Earnest.(1994年6月 ベストブック ISBN 4831492124)
* 藤原喜明のスーパー・テクニック―最強の関節技全公開
* 復刻 幻の藤原ノート――「ゴッチ教室」の神髄(2009年12月 講談社 ISBN 4062158752)
 
* 覚悟ー人生60年、覚悟が生死をわけた!ー(2010年3月 ビジネス社 ISBN 4828415688)
ほか
 
== 脚注 ==
115

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