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[[1099年]]、十字軍の[[タンクレード (ガリラヤ公)|タンクレード]]がガリラヤを占領し、ナザレを首都に定める。古い[[:en:Scythopolis|Scythopolis]]教区も、[[エルサレム王国]]時代からの4つの大司教区の1つである[[ナザレ大司教]] ([[:en:Archbishopric of Nazareth|Archbishopric of Nazareth]]) の下に移される。[[1187年]]、[[サラディン]]が[[ヒッティーンの戦い]]に勝利し、街は再びイスラムの支配下となる。残った十字軍やヨーロッパ人の牧師は、強制的に街から追い出された。
 
[[1263年]]、[[マムルーク朝]][[スルタン]]の[[バイバルス]]が、パレスチナの地から、キリスト教徒の残党を追い払う命令の中で、ナザレにあったキリスト教徒の建築物を破壊し、キリスト教の牧師が町に立ち入ることを禁止した。ナザレにいたキリスト教徒はこの地でき続けていたが、住民規模は縮小した。[[1294年]]にここを訪れたキリスト教巡礼者は、岩屋を守る小さな教会しかなかったと報告している。
 
14世紀、[[フランシスコ会]]の修道士の帰還と、聖堂跡地への居住が認められた。しかし、[[1584年]]、彼らは再び立ち退かされた。[[1620年]] 、[[オスマン・シリア]] ([[:en:Ottoman Syria]]) の一部を支配していた''[[:en:Fakhr-al-Din II|Fakhr-al-Din II]]''が、修道士の帰還と、受胎告知の岩屋に小さな教会を建設することを許可した。この神聖な場所周辺への巡礼ツアーが、以前町に住んでいたフランシスコ会によって組織された。しかし修道士たちは、周囲に住む[[ベドウィン]]に苦しめられていた。ベドウィンはしばしば身代金目的に誘拐を行ったためである。地元[[シャイフ]]の[[:en:Daher el-Omar|Daher el-Omar]]の治世に平和が戻った。彼はガリラヤの大部分をオスマン化し、[[1730年]]にフランシスコ会の教会建築を承認した。