「岩崎小弥太」の版間の差分

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また、[[筑波大学附属中学校・高等学校|東京高師附属中学]]時代の同窓生であった今村銀行(後の[[第一銀行]])頭取の[[今村繁三]]とともに、同じく同窓生であった明治、大正期の教育者の[[中村春二]]を援助し、[[学校法人成蹊学園|成蹊学園]]の創設に寄与した。
 
[[岩崎孝子|孝子]]夫人は旧[[薩摩国]][[鹿児島藩]]主[[島津氏]]の分家・[[島津珍彦]][[男爵]]の娘。小弥太・孝子夫妻は子供に恵まれなかったので姪の淑子(小弥太の弟・[[岩崎俊弥]]の次女)を養女に迎え、[[林董]]の孫・忠雄を淑子の婿とした。小弥太の養嗣子となった[[岩崎忠雄]]は後に[[三菱化学エムケーブイ|三菱モンサント化成]]の社長を務めた。
 
庶子の一人は箱根底倉温泉の老舗旅館「つたや」の経営者[[沢田鋓義]]の養女となり<ref name="kusa2">草柳大蔵『実力者の条件』p.201(文藝春秋社、1970年)</ref>、のち[[牧田與一郎]]に嫁いだ<ref name="kusa2"/>。與一郎の四男がピース缶爆弾事件の[[牧田吉明]]である。