「トグス・テムル」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
テンプレート、本文改変、カテゴリ改変
1行目:
{{基礎情報 君主
| 人名 = トグス・テムル<br/>脱古思帖木児
| 各国語表記 = ᠲᠡᠭᠦᠰ ᠲᠡᠮᠦᠷ
| 君主号 = [[モンゴル帝国]]第17代皇帝(大[[ハーン]])
| 画像 =[[Image: YuanEmperorAlbumTögüsTemürUskhalPortrait.jpg|250px]]
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 =
| 在位期間 = [[1378年]][[5月]] - [[1388年]][[11月]]
| 戴冠日 = [[1378年]][[5月]]
|蒙文尊称 別号 = ウスハル・ハーン
| 全名 =
| 配偶者1 =
| 子女 = [[天保奴]]、[[地保奴]]
| 王家 = [[クビライ家]]
| 王朝 =
| = [[トゴン・テムル]]の長男
|都城 母親 =
| = 不詳
|諡号 生地 =
|没年 死亡日 = [[1388年]][[11月]]
|廟号 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
}}
{{基礎情報 中国君主
|名 =トグス・テムル平宗 脱古思帖木児
|代数 =173
|呼称 =大ハーン皇帝
|王朝 =北元
|画像 =[[Image:YuanEmperorAlbumTögüsTemürUskhalPortrait.jpg|250px]]
|説明都城 =カラコルム
|王朝諡号 =モンゴル寧孝皇
|廟号 =平宗
|在位期間 =[[1378年]] - [[1388年]]
|年号 =[[天元 (北元)|天元]] : [[1379年]] - [[1387年]]
|都城 =
|諱 =トグス・テムル<br/>脱古思帖木児
|字 =
|諡号 =
|廟号 =
|蒙文尊称 =ウスハル・ハーン
|生年 =不詳
|没年 =[[1388年]]
|父 =[[トゴン・テムル]]の長男
|母 =
|皇后 =
|陵墓 =
|年号 =[[天元 (北元)]] : [[1379年]] - [[1387年]]
|注釈 =
}}
'''トグス・テムル'''('''T&#246;g&#252;s-Tem&#252;r''')は、[[モンゴル帝国|モンゴル]]の第17代[[ハーン|大ハーン]]([[北元]]として第3代皇帝)。即位当時に立てた昭宗[[アユルシリダラ]]の弟。治世の[[元号]]から'''天元帝'''と呼ばれることもある。[[クビライ]]以来続いてきた[[元 (王朝)|元朝]]の王統から出た最後のハーンとなった。
 
== 生涯 ==
'''トグス・テムル'''('''T&#246;g&#252;s-Tem&#252;r''')は、[[モンゴル帝国|モンゴル]]の第17代[[ハーン|大ハーン]]([[北元]]として第3代皇帝)。即位当時に立てた[[元号]]から'''天元帝'''と呼ばれることもある。[[クビライ]]以来続いてきた[[元 (王朝)|元朝]]の王統から出た最後のハーンとなった。
前ハーンの[[アユルシリダラ宣光]]の弟で、8年([[1378年]]にアユルシリダラ)、兄帝崩御とともにハーンに即位し、天元と改元した。トグス・テムルが即位したとき、元を北に追いやった[[明]]はそれでもせいぜい[[江南]]に加えて[[華北]]と[[モンゴル高原]]の南辺を押さえたのみで、まだ依然として精強な北元の勢力を誇る元は明と充分に戦える状況にあった。当時のの支配領域は東西は中国東北([[満州]])から[[モンゴル|モンゴル人]]の本土である[[モンゴル高原]]のほとんど全土を保持しており、しかも中国の[[甘粛省|甘粛]]や[[雲南省|雲南]]にはモンゴルの王族や貴族が残して明と対峙していた。
 
前ハーンの[[アユルシリダラ]]の弟で、[[1378年]]にアユルシリダラの死とともにハーンに即位し、天元と改元した。トグス・テムルが即位したとき、元を北に追いやった[[明]]はそれでもせいぜい[[江南]]に加えて[[華北]]と高原の南辺を押さえたのみで、まだ依然として精強な北元の勢力は明と充分に戦える状況にあった。当時の北元の支配領域は東西は中国東北([[満州]])から[[モンゴル|モンゴル人]]の本土である[[モンゴル高原]]のほとんど全土を保持しており、しかも中国の[[甘粛省|甘粛]]や[[雲南省|雲南]]にはモンゴルの王族や貴族が残留して明と対峙していた。
 
[[天元 (北元)|天元]]9年([[1387年]]トグス・テムルは東北方面に勢力を持つ[[ジャライル]]部の[[ナガチュ]]が明の北伐を受けて窮地に陥ったことを受け、東方に向かって遠征を行った。しかしナガチュは明に降伏してしまい、トグス・テムルも翌年に[[ホロンボイル]]地方のブイル・ノールで明の将軍[[藍玉 (明)|藍玉]]と戦って大敗した。この戦いでトグス・テムルの皇后をはじめ、8万と言われる多数の軍民を捕虜とされてほとんど大半が壊滅するした
 
トグス・テムルは[[カラコルム]]を目指して落ち延びたが、途中で高原西部に勢力を持つ[[アリクブケ]]系統の王族[[イェスデル]]の襲撃を受け、その残軍もほとんど壊滅した。トグス・テムルはわずか16騎とともに辛くも逃げ延びたものの、大雪に阻まれてカラコルムにたどり着けないでいるうちにイェスデルの軍に追いつかれて捕らえられ、殺害された。トグス・テムルには2人の男子がいたが、長男の[[天保奴]][[ティポヌ]])は父とともに殺害され、ブイル・ノールで捕虜となった次男の[[地保奴]][[ティボヌ]])は明によって[[琉球]]に流されたため、北元のクビライ王統はここに一旦断絶した。
 
トグス・テムルを殺害したイェスデルは自らハーンに即位するが、その王統は長続きせず、モンゴルは長い混乱期に入ることになる。
 
{{先代次代|[[モンゴル帝国]]([[北元]])大ハーン|1378年 - 1388年|[[アユルシリダラ]](昭宗)|クビライ王統断絶<br>([[イェスデル]]}}
 
{{DEFAULTSORT:とくすてむる}}
[[Category:元の皇帝]]
[[Category:北元の皇帝]]
[[Category:元の皇帝1340年代生]]
[[Category:1388年没]]