「フランス革命戦争」の版間の差分

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この状況の中、ナポレオンは少数の部下と共にエジプトを脱出してフランスに戻り、11月9日、[[ブリュメール18日のクーデター]]を起こして[[執政政府]]を樹立、第一執政に就任し独裁権を握った。[[1800年]]、ナポレオンは反撃のため[[アルプス山脈]]を越えて北イタリアに進出。[[マレンゴの戦い]](6月14日)では、フランス軍はオーストリア軍の急襲を受け窮地に追い込まれるが逆襲に成功する。[[ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー|モロー]]が率いるライン方面軍も[[ホーエンリンデンの戦い]](12月3日)でオーストリア軍に勝利した。翌年、オーストリアは[[リュネヴィルの和約]]を締結しフランスと講和した。
 
フランスとの戦争を続けるのは主要国では再びイギリスのみとなった。さらに、イギリスのマルタ島占領で通商権を侵害された[[デンマーク]]、[[スウェーデン]]と、イギリスの地中海進出に難色を示したロシアがプロイセンと結び、第二次[[武装中立同盟]]を結成してイギリスと対立した。[[1801年]]、イギリスは[[コペンハーゲンの海戦]](4月2日)でデンマーク艦隊を撃破して武装中立同盟を解体させ、エジプトではイギリス軍とオスマン帝国軍が[[アブキールの戦い (1801年)|第二次アブキールの戦い]](3月22日)に勝利して半年後にフランスのエジプト遠征軍を降伏に追い込んだ。
 
== 講和 ==