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{{基礎情報 武士
'''酒井 了次'''(さかい のりつぐ、[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]]) - [[寛永]]14年([[1637年]]))は[[酒井家次]]の五男。通称、玄蕃。'''酒井玄蕃家'''の祖。兄弟に[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]](長男)、[[酒井直次]](次男)、[[酒井忠重]](三男)、[[酒井勝吉]](四男)、酒井忠時(六男)、酒井政時(七男)、娘(久松[[松平忠良]]正室)、娘([[水谷勝隆]]正室)、娘([[内藤忠興]]正室)、娘(里見忠英室)、娘(島田重利室)、娘(高力一成室)、娘([[奥平忠隆|管沼忠隆]]正室)ら。子に酒井忠崇(嫡男)。
| 氏名 = 酒井了次
| 時代 = [[江戸時代]]初期
| 生誕 = [[慶長]]11年([[1606年]])
| 死没 = [[寛永]]12年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]([[1635年]][[6月24日]])
| 改名 =
| 別名 = 鶴千代(幼名)、玄蕃(通称)
| 諡号 =
| 戒名 =
| 墓所 = [[山形県]][[鶴岡市]]家中新町 大督寺
| 官位 =
| 幕府 = [[江戸幕府]] [[旗本]]
| 主君 =
| 藩 =
| 氏族 = [[酒井氏]]
| 父母 = 父:[[酒井家次]]
'''酒井 了次'''(さかい のりつぐ、[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]]) - [[寛永]]14年([[1637年]]))は[[酒井家次]]の五男。通称、玄蕃。'''酒井玄蕃家'''の祖。兄弟 = [[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]](長男)、[[酒井直次|直次]](次男)'[[酒井忠重|忠重]](三男)、[[酒井勝吉|酒井勝吉]](四男)酒井'''了次'''、忠時(六男)、酒井<br />政時(七男)、娘(久松[[松平忠良]]正室)<br />娘([[水谷勝隆]]正室)、娘([[内藤忠興]]正室)<br />娘([[里見忠英義高]]室)、娘(島田重利室)<br />娘(高力一成室)、娘([[奥平忠隆|沼忠隆]]正室)ら。子に酒井忠崇(嫡男)。
| 妻 =
| 子 = '''忠崇'''
| 特記事項 =
}}
 
'''酒井 了次'''(さかい のりつぐ)は、[[江戸時代]]の[[旗本寄合席|寄合]][[旗本]]。[[庄内藩]]一門'''酒井吉之丞(玄蕃)家'''の祖。
兄の忠重に讒言され、兄の忠勝により高野山入りを命ぜられたが、寛永12年に密かに江戸に上った罪により、庄内藩領内の黒川に幽閉された。軟禁状態にあり、里人の能舞を楽しみ、自らも鼓を打ち謡をしたが、寛永14年配所にて20歳で没した。
 
== 経歴 ==
了次の系統は嫡男忠崇、孫[[酒井重盈|重盈]]、4代後の[[酒井重喬]]、江戸時代末期の[[酒井了明]]、その子で[[戊辰戦争]]で活躍する[[酒井了恒]](玄蕃)、その弟で庄内柿の生みの親の[[酒井調良]]、そのまた弟は書家の[[黒崎研堂]]である。
[[慶長]]11年([[1606年]])、[[酒井家次]]の五男として生まれる。元和8年([[1622年]])、兄[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|忠勝]]が[[庄内藩]]主となった際に、5000石を分与されて寄合旗本となる。
 
宗家の家督横領を企む兄の忠重に讒言され、兄の忠勝により[[高野山]]入りを命ぜられたが、[[寛永]]12年([[1635年]])に密かに江戸に上った罪て[[若年寄]]密訴したため、忠勝の怒を買い、庄内藩領内の黒川に幽閉された。軟禁状態にあり、里人の能舞を楽しみ、自らも鼓を打ち謡をしたが、[[寛永14]]12([[1635年]])5月10日配所にて20歳で没した死去。享年30
 
没年は、大督寺の墓碑に記されたものは寛永12年。高野山の塔銘に記されたものは寛永13年([[1636年]])、酒井本家系図に記されたものは寛永14年([[1637年]])である。<ref>『櫛引町史』</ref>
 
嫡男忠崇は、[[酒井忠清]]の仲介で宗家の扶持を受けることとなり<ref>『櫛引町史』</ref>、[[承応]]2年([[1653年]])死去。忠崇の子の[[酒井重盈|重盈]]は、弟の重秋と共に江戸から、庄内に下向して宗家に仕え、後に家老となる。
 
重盈の家は、'''酒井吉之丞(玄蕃)家'''と呼ばれ、代々藩内で重きを成した。重盈の後は、4代[[酒井重栄|重栄]]、5代[[酒井重喬|重喬]]、6代[[酒井重頼|重頼]]、7代[[酒井了知|了知]]、8代[[酒井了安|了安]]、9代[[酒井右京|了繁]]、10代[[酒井了明|了明]]、11代[[酒井了恒|了恒]]、12代[[酒井了敏|了敏]]、13代[[酒井調良|調良]]と続く。
 
了次の系統は嫡男忠崇、[[酒井重盈|重盈]]、4代後[[酒井重喬]]中でも江戸時代末期の[[酒井了明]]、その子で[[戊辰戦争]]で活躍する[[酒井した了恒]](玄蕃)、その弟で庄内柿の生みの親の[[酒井調良]]そのまた同じく書家の[[黒崎研堂]]は高名である。
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*『櫛引町史』
*『荘内人名辞書』
{{DEFAULTSORT:さかい のりつく}}
[[Category:1618年生]]