「ナバス・デ・トロサの戦い」の版間の差分
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|place=[[スペイン]]、[[アンダルシア州]]、[[ラ・カロリーナ]]、[[ナバス・デ・トローサ]]
|result=カトリック連合軍の圧勝
|combatant1=[[カスティーリャ王国]]<br/>[[アラゴン王国]]<br/>[[ナバーラ王国]]<br/>[[ポルトガル王国]]<br/>[[テンプル騎士団]]<br/>[[サンティア
|combatant2=[[ムワッヒド朝]]
|commander1=カスティーリャ王[[アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ8世]]<br/>ナバーラ王国[[サンチョ7世 (ナバラ王)|サンチョ7世]]<br/>アラゴン王[[ペドロ2世 (アラゴン王)|ペドロ2世]]など
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== カトリック連合軍の集結と脱落者の続出 ==
[[1199年]]にヤアクーブ・マンスールを継いだ[[ムハンマド・ナースィル]]は1211年、10万を越える大軍を率いて[[ジブラルタル海峡]]を渡り、[[カラトラーバ騎士団]]の守る[[サルバティエーラ]]の要塞を占領して、カトリック諸国の心胆寒からしめた。ムワッヒド朝が新たに攻撃の準備をしていることを知ると、[[教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]と[[トレド]]の[[大司教]]は、カトリック諸国間で争うのをやめ、カスティーリャ王アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラム戦争を戦うように命じた。教皇の仲裁の下で、カスティーリャ王アルフォンソ8世、[[ナバラ王国|ナバーラ王]][[サンチョ7世 (ナバラ王)|サンチョ7世]]、[[アラゴン王国|アラゴン王]][[ペドロ2世 (アラゴン王)|ペドロ2世]]は同盟を確約した。
カトリック連合軍の構成は次のようであった。アルフォンソ8世の指揮する軍勢はカスティーリャの20の町の軍団の連合であった。[[メディーナ・デル・カンポ]]、[[マドリード]]、[[ソリア]]、[[アルマサン]]、[[メディナセーリ]]と[[サン・エステバン・デ・ゴルメス]]などの町が含まれていた。[[ビスカヤ県|ビスカヤ]](Vizcaya)の領主ディエゴ・ロペス2世デ・アロ(Diego López II de Haro)が旗の持ち手になった。そしてナバーラ王サンチョ7世、アラゴン王ペドロ2世、[[ポルトガル王国|ポルトガル王]][[アフォンソ2世 (ポルトガル王)|アフォンソ2世]]の軍である。ポルトガル軍はこの戦いには参戦したものの、王自身は参戦しなかった。それから[[テンプル騎士団]]、[[サンティア
アルフォンソ8世にとってはアラルコスの雪辱を果たす好機でもあった。しかし、教皇至上主義の騎士たちの一部が連合軍から刃こぼれするように脱落していった。つまり、キリスト教連合軍の指揮官アルフォンソ8世に従ってついてきただけの義勇兵的な騎士たちには、政治的な了解などの強い動機があったわけではなかった。彼らにとって暑くて不快な慣れない気候は耐えられないものだったのである。このように、カトリック連合軍は必ずしも足並みが揃っているわけではなく、当初6万を超えた兵力は5万程度まで減少した<ref>一説には、アルフォンソ8世は普通のイスラム教徒住民には寛容であり、カラトラバの町の住民に攻撃を予告して逃がしたために戦意を失った騎士たちが帰国したという。(鈴木1996年、p.178)</ref>。
== ナバス・デ・トロサの戦闘経過 ==
[[アンダルシア州|アンダルシア地方]]のハエンの住民の間の小競り合いに半ば介入する形で、1212年7月16日にハエン近郊のナバス・デ・トローサで両軍は戦闘を開始した。カトリック連合軍の配置は、カスティーリャ王と騎士修道会の軍勢が中央に陣取り、ナバーラ王、[[アビラ]]、[[セゴビア]]、[[メディーナ・デル・カンポ]]([[バリャドリッド]])の軍勢が右翼、左翼にアラゴン王の軍勢が陣取っていた。はじめは小競り合いのような戦いが繰り返された。カトリック連合軍は約5万、ムワッヒド軍は約12万5千の兵力であった。
[[ファイル:SanchosoloWK.jpg|frame|left|ナバーラ王サンチョ7世「剛勇王」の雄姿。スペイン北部[[ロンセスバー
ムワッヒド軍は正面からの衝突をなるべく避けて、カトリック連合軍が疲れてくるのを待つ戦術をとった。イスラム軍はカトリック軍の2倍をはるかに凌駕する兵力であり、後退するように見せかけて、主力の厚みを生かして一気に反攻するつもりであった。つまり、カトリック連合軍を挑発しておいて混乱しているところを、[[アンダルス]]と本国の[[ベルベル人]]で構成された圧倒的な戦力をもって[[イベリア半島]]から一気に叩き出すつもりであった。
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イスラム教徒軍が後退を始めた時、それを見ていたカトリック連合軍の陣中では、アルフォンソ8世が臣下である騎士たちや王子の正面にいた。アルフォンソ8世はカトリック王たち共通の、そして自分自身に課せられた使命を果たすチャンスと見てとった。アルフォンソ8世は、ムハンマド・ナースィルの本陣の反対側の脇腹に突撃をかけた<ref>脇腹へ抜ける山の間道(Despeñaperros Pass;直訳はDespeña-「絶壁から突き落とす」+-perros「犬たちorひどい、劣悪な」→「絶壁にある犬走り、間道」又は「絶壁にある劣悪な間道」か?)をこっそり使って奇襲をかけた、あるいはアンダルシア地方の「王の橋」を通ってシエラ・モレーナ山脈を通り抜けて攻撃をかけたという(鈴木1996年、p.178)。</ref>。この攻撃はカトリック連合軍の士気を奮い立たせた。一方、ムワッヒド軍は大混乱に陥った。アラゴン軍やナバーラ軍の小競り合いのような戦いも形勢が一気に傾いた。
この時、伝説のように語られるナバーラ王サンチョ7世の突撃が行なわれた。ナバーラ王は揮下の精鋭を率いてムハンマド・ナースィルの本陣めがけて突攻し、本陣のテントを鎖のように守る屈強な奴隷による親衛隊を打ち破って、テントまで斬り込んだ。ムハンマド・ナースィルとその軍勢は慌てふためいて、9万とも10万ともいえる犠牲者を出して敗走した。一方、カトリック連合軍の戦死者は2000人ほどであった。主な犠牲者は騎士修道会に集中していた。カラトラーバ騎士団の旗手であるペドロ・ゴメス・デ・アセベード(Pedro Gomez de Acevedo)、サン
[[ファイル:Blason Royaume Navarre.svg|thumb|100px|right|戦後のナバーラ王国の新たな盾形紋章]]
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== ナバス・デ・トロサの戦いのもたらした影響 ==
ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝の受けた打撃は壊滅的ともいえるもので、以後イベリア半島のイスラム勢力は衰退と後退の一途をたどることになった。そしてムワッヒド朝の本国である[[マグリブ]]においても、やや時期が遅れたものの、衰退に拍車をかけることになった。一方でカトリック諸国のレコンキスタの進展にははずみをつけることになった。
カトリック諸国間の内紛や[[1225年]]の大飢饉がなければ、もっとレコンキスタが加速したであろうと言われている。ナバス・デ・トロサの戦いの後、カスティーリャ王国は[[バエサ]]と[[ウベダ]]を獲得した。これは[[ナバス・デ・トローサ]]近郊の主要な砦であり、アンダルシアへ侵入する玄関口ともいえる拠点であった。カスティーリャ王国のレコンキスタは [[フェルナンド3世 (カスティーリャ王)|フェルナンド3世]]の時代、[[1236年]]に[[コルドバ]]、[[1246年]]にハエン、[[1248年]]に[[セビリ
一方、アラゴン王国は[[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]の時代、[[1228年]]から4年をかけて[[バレアレス諸島]]を征服し、[[1238年]]9月に[[バレンシア王国|バレンシア]]を占領した。バレンシアは13世紀の地中海において[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]や[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]に次ぐ商業都市となった。アラゴン王国は、バレアレス諸島から[[サルデーニャ]]や[[シチリア]]までの西地中海域を支配する「帝国」へと成長した。
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