「水野龍」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
敬称を外す
3行目:
 
== 経歴 ==
水野家は[[美濃国]]の城主・深尾氏の家臣といわれ[[関ヶ原の戦い]]後、[[土佐藩]]の家老となった深尾氏に随い、池野姓を名乗ったが、明治に入って水野姓に復した。土佐藩士・水野亀子の次男として生れ、藩校[[明教館]]に学び、北原村小学校教員となったが、18歳で上京し、明治21年([[1888年]])、[[慶應義塾]]を卒業し、[[後藤象二郎]][[逓信省|逓信相]]に聘せられて[[岡山県庁]]に勤務中、徳島藩士の岩佐規矩与と結婚。後藤象二郎の死により、官界進出を断念して政界に入り、[[板垣退助]]の[[自由民権運動]]の闘士となり、明治31年([[1898年]])[[奈良県]]から[[代議士]]に立候補しようとしたが、演説過激の容疑で40日投獄される。
 
[[吉佐移民|吉佐移民合資会社]]などを経て、[[杉村濬]]公使の協力を受け、明治38年([[1905年]])[[ペルー]]経由で渡伯。[[サンパウロ州]]政府と3年間に3千人の日本人農業移民導入契約をまとめ、一旦帰国。明治41年([[1908年]])[[上塚周平]]を輸送助手に初のブラジル第一回移民781名を監督して[[笠戸丸]]で再渡伯。この後帰国し、大正4年([[1915年]])竹村植民商会を譲り受けて、南米植民株式会社を設立。ブラジル移民組合を組織。大正5年([[1916年]])12月、移民殖民会社を多数併合し、海外興業会社を設立、この間、曲折を経て事業面での浮沈を繰り返すが、日本人移民は大正9年([[1920年]])までに約3千人弱を記録した。