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'''聖変化'''('''せいへんか''''''{{Lang-la|transubstantiation''', '''consecration''', '''}}、{{langLang-en-short|transubstantiation}}、{{Lang-ru-short|Пресуществление}}''')は、[[カトリック教会]]の[[ミサ]]や[[正教会]]の[[聖体礼儀]]において[[パン]]と[[ぶどう酒]]が[[イエス・キリスト]]の体([[聖体]]・聖体血)に変化すること。
*[[カトリック教会|カトリック]]教理の[[聖餐|聖体の秘跡]]において、[[パン司教]][[司祭]]がパンとぶどう酒]][[司祭]]が[[聖別]]するとき、パンとぶどう酒のすべての[[実体]]は外観([[偶性]])のみ残してキリストの実体に変化するされている。この時、キリストの実体とは、体と血と[[霊魂]]を含む人性と[[三位一体]]の[[神性]]との実体のすべてを指す。この定義は[[第4ラテラン公会議]]([[1215年]])および[[トリエント公会議]]([[1545年|1545]]-[[1563年]])で公式に認められた。
 
[[*トリエント公会議]]によれば、「私たちの救い主キリストは、パンの形色の中にささげたのが自分の真の身体であると仰せられたので(([[マタイによる福音書|マタイ]]26:26以下、[[マルコによる福音書|マルコ]]14:22以下、[[ルカによる福音書|ルカ]]22:19以下、[[コリントの信徒への手紙一|コリント第一]]11:24以下参照)、天主の教会は変ることなく常に信じてきたことを、この聖なる公会議も繰返して宣言する。すなわち、'''<u>パンとブドー酒の聖別によって、パンの実体はことごとく私たちの主キリストの実体となり、ブドー酒の実体はことごとくその血の実体に変化する'''</u>。聖なる[[カトリック教会]]は、この変化を便宜上、適切に'''全実体変化'''と言い表わしている(第2条)。」<ref>[http://fsspxjapan.fc2web.com/tridentini/tridentini13.html 第13総会:聖体についての教令 第4章 全実体変化について] [[聖ピオ十世会]]</ref>
 
*また、[[トリエント公会議]]は次のようにも宣言している。「聖なる公会議は次のことを教え、簡単明瞭に表明する。尊敬すべき聖なる聖体の秘跡において、パンとブドー酒の聖別の後、まことの天主でありまことの人である私たちの主イエズス・キリストが、'''<u>真に、現実に、実体的に'''</u>({{lang-la-short|vere, realiter, substantialiter}})、パンとブドー酒というかの可感覚的な形色のもとに含まれている。事実、私たちの救い主が自然な存在の仕方で、天において常に聖父の右に座しておられることと、しかしながら、われわれが言葉で表わすことはほとんど不可能ではあるが、天主には可能であることを信仰に照らされた認識によって把握することができ、また固く信じなければならない存在の仕方によって秘跡的に他の多くの場所にご自分の実体によって現存して私たちに臨在しておられることとは互いに矛盾しない。」<ref>[http://fsspxjapan.fc2web.com/tridentini/tridentini13.html 第13総会:聖体についての教令 第1章 いとも聖なる聖体の秘跡における私たちの主イエズス・キリストの実在] [[聖ピオ十世会]]</ref>
 
*聖体の秘跡に関する規定として同じ[[トリエント公会議]]は宣言している。これによれば、霊的な現存でもなく、宗教的しるしや象徴としての意味おいての現前でもなく、本当に、現実に、実体的に現存しているというカトリックの信仰を確認している。「1条。聖体の秘跡の中に、真に、現実に、そして実体的に私たちの主イエズス・キリストの体と血がその霊魂と神性とともに、すなわちキリスト全部が含まれていることを否定し、「この秘跡の中には、しるしまたは象徴として、または効力だけで含まれている」と言う者は排斥される。」<ref>[http://fsspxjapan.fc2web.com/tridentini/tridentini13.html 第13総会:聖体の秘跡に関する規定] 聖ピオ十世会</ref>
 
「1条。聖体の秘跡の中に、真に、現実に、そして実体的に私たちの主イエズス・キリストの体と血がその霊魂と神性とともに、すなわちキリスト全部が含まれていることを否定し、「この秘跡の中には、しるしまたは象徴として、または効力だけで含まれている」と言う者は排斥される。」<ref>[http://fsspxjapan.fc2web.com/tridentini/tridentini13.html 第13総会:聖体の秘跡に関する規定] [[聖ピオ十世会]]</ref>
 
[[プロテスタント]]諸派では、宗教改革以降、パンとぶどう酒が本当にキリストの体に変わる訳ではなく、単なるシンボルに過ぎないと考えたが、カトリック教会は[[トリエント公会議]]での議論によって改めてこれを否定、現代に至っている。
 
:聖変化について、カトリック教会では[[アリストテレス]][[哲学]]による定義を用い、事物は実体と偶性(大きさ、色、かたち)からなり、実体それ自体は概念的なものであって偶性を伴ってはじめて存在するとする。従って、聖変化後のパンとぶどう酒は、偶性、即ちそれらの外観や科学的な組成は変わらずとも、実体は変化したと考える。そして実体は概念であるが故に不可視・不可触なものである。聖変化に対して他教派や非キリスト教徒からしばしば受け批判されことがあり、特に[[宗教改革]]以降、[[プロテスタント]]諸派では、パンとぶどう酒は(聖変化後も)何らが本当にキリストの体に変わることが訳ではなく、単なるシンボルに過ぎないという批判の一部は考えたがカトリック教会はトリエント公会議で実体と偶性という事物の捉え方議論関する理解の欠如から来よって改めてこれを否定、現代に至っている。こである。他方、概念としての実体変化の有無に対する見解の相違、或いは批判は、カトリック神学と他教派の神学における聖餐論の違いであるといえよう。
*[[正教会]]の[[機密 (正教会)|機密]]の一つである[[聖体機密]]は[[聖体礼儀]]において行われる。パンとぶどう酒が聖体血に変わる聖変化についての定式は判然としないが、聖体礼儀から派遣されて此の世での日常を生きた我々の生活がパンとぶどう酒として捧げられている、このダイナミズムこそが聖変化の動力であるという見方もできる。
:聖体血の扱い方に関する取り決めはある。管見の範囲で言えば、聖体血のかけらが落ちた場合には、手で拾わずに口で直接に聖体血を拾う。絨緞に聖体血をこぼした場合には、誤って踏んでしまわない為にこぼした箇所を切り抜いて焼いてしまう。
 
== 関連項目脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[聖化]] [[:en:consecration|consecration]]