「斎藤耕一」の版間の差分

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しかし次第に自身のイメージと作品とのあまりのずれに失望し、[[1967年]]、私財を投じて「斎藤プロダクション」を設立する。同年、自ら脚本も書いた『囁きのジョー』で監督デビューする<ref name="asahi">「斎藤耕一さん」 『朝日新聞』 2009年11月29日、13版、39面。</ref>。
 
[[1968年]]、松竹専属監督となり、『小さなスナック』などの「歌謡映画」を撮っていたが、[[1972年]]、[[岸惠子]]扮する仮釈放の女囚と[[萩原健一]]扮する強盗犯との短い恋を描いた『[[約束 (1972年の映画)|約束]]』で評価を高め、『[[旅の重さ]]』、[[キネマ旬報]]ベストワンにかがやいた『[[津軽じょんがら節]]』と次々と発表し、日本を代表する映画監督のひとりとなる。1970年代前半には受賞も多く、旺盛な製作活動で絶頂を築いた
 
その後も日本の風土を背景にした作品を撮り続けている。特に、当時「日本一荒れた学校」と報道された「稚内南中学校」が全国民謡民舞大会で日本一になった実話をもとに作られた『[[稚内発・学び座]]』は、[[1999年]]に公開され、大反響を呼んだ。