「西殿塚古墳」の版間の差分

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== 概要 ==
天理市南部に広がる[[大和古墳群]]の中でも最大の大きさであり、[[延喜式]]で[[山辺郡]]にあったとされる[[手白香皇女]]衾田陵の位置にあたるため、[[宮内庁]]により手白香皇女衾田陵に治定されている。しかし[[箸墓古墳]]と同様の[[吉備]]様式の[[特殊器台]]が後円部に並び<ref name=tera>寺沢(2000)</ref>、[[埴輪]]や墳丘の形態等からも箸墓古墳に続く時期の大王墓という見方がある<ref name=shira>白石(1999)</ref>。こうして築造時期は3世紀後半から4世紀初めごろと想定されている<ref name=tera/><ref name=shira/><ref name=wada>和田(2003)</ref>。これらの見方では築造時期が手白香皇女の生没年と全く合わない。その場合、衾田陵は延喜式でいう山辺郡でも推定築造時期が6世紀と考えられている周辺唯一の古墳である[[西山塚古墳]]と考えられていする説がある<ref name=wada/>。
 
箸墓古墳衾田陵と捉えず続く大王墓とみた場合、別の被葬者を推定する試みもある。まずは箸墓古墳の被葬者を[[卑弥呼]]考えして[[台与]]らその次世代の王を西殿塚古墳の被葬者と考えるものである<ref name=shira/>。また崇神陵の陵守が衾田陵を合わせて守っていたという記録から、この西殿塚古墳こそが[[崇神天皇]]陵であったという解釈ある<ref name=wada/><ref>ただし先の考古学的見解を容れていない。</ref>。あるいは、箸墓古墳の被葬者を[[卑弥呼]]と考え、それに続く大王とみて、[[台与]]らその次世代の王と陵墓とする考えるものもある<ref name=shira/>。
 
現在、宮内庁が管理しており、研究者や国民の立ち入りは禁じられている。